異常気象と言うことだが、異常とか非常とか、「常と異なる」「常に非ず」ということで、私はこの異常とか非常とかいう単語を使うのに、すごく変なこだわりがあって、なるべく使いたくないのだ。例えば、今年の夏の平均気温が百数年間で一番高かったというと、ものすごく「異常」で「非常事態」である、と即刻そう思うけど、ありうる「百年に一度」なのか、ありえない「百年に一度」なのかを知りたい気がする。ありえない「百年に一度」だったら確かに異常気象だろう。
 百年分の真夏の平均気温データ百個からその平均と標準偏差を計算した結果って新聞とかどこか、すぐに知りえるところで見ないけど、どうなんだろう。そして今年の最高気温って平均+3σとか平均+2σから唯一飛び出ていて、分布グラフを書いても一つだけ突出して正規分布からずれているのだろうか?
 そうだったとしても、エルニーニョだったかなんとかニーニョだったか、とか、偏西風のうねりだとか、そんな「原因」はそれなりに判っているみたいで、そういう原因のまた原因の確率もあるだろうし。
 第一、地球温暖化は人間の暮らしぶりのわがままな結果(なんてね)で、そういう原因も判っていて、その結果最高気温記録を更新しても、それは理由が明確なのだから、異常ではなく「想定範囲の変化が現実に発生したことを実感している」ということで、それって異常ではなく正常なる最高気温更新ってことではないのかな?そういう風に考えの基盤を置かないと、対策も不明瞭になりかねない気がするな。
 ただ、そんな風に理屈で考えようとするより、そうは言っても身体が感じていることが重要で、確かにいつまでも暑くてたまらないですね。
 しかし、季節というか季節感みたいなことはもちろん気温だけで決まっているわけではないから、空を見上げると同じ快晴でも真夏とは違う刷毛で掃いたような雲をよく見かける。虫の声も夏の初めのころとは違ってそこここでコオロギが鳴いている。真昼にはキリギリスも鳴いている。あるいは先週立ち寄ったカフェハッチではどこかでカネタタキが鳴いていた。植物の葉なんかも、濃い緑と瑞々しい勢いが感じられた夏のピークからすると、少し乾いたり萎れたりしているように見える。
 人の暮らしもちゃんと九月になっていて、当たり前だけど、学校は夏休みが終わってしまってもう始まっている。
 今朝、茅ヶ崎海岸に行ってみたら、海の家は取り壊し作業中だったし、ものすごく暑いうえに波は極めて平穏で小さく、いかにも海水浴にぴったりに思えたが、もう水着の人は誰もいなかった。まあ、ちょっと時間が早すぎただけかもしれないけど。

 一番最近読んだ本は三浦しをん著「まほろ駅前多田便利軒」で、読み始めたらすぐに70年代の「傷だらけの天使」を初めとする男二人組み(相棒関係)のテレビドラマやら、あるいは池波正太郎の仕掛け人藤枝梅庵シリーズなんかがよぎった。一つ一つの物語はそこで完結していて、でも全体を通じて進行する大きな流れ(謎)も存在していて。これはエンタテイメント作品を作る上でのあるタイプの典型を使っていて、あとはそこでどう荒唐無稽か、あるいは感情移入を誘うか、というところの面白さが重要なのだろう。なかなかに楽しめた。

 上の写真は、今日夕方に自転車で近所をうろうろしていたときに見つけた「象のような形に見える雑草のかたまり」であります。象のようではないですか?あるいは、風の谷のナウシカに出てきたキョシンヘイ(どういう字なのか?)が中途半端な再生の段階で無理矢理起き上がろうとしているみたい。
 最近、いい写真が撮れない、とこのブログにもぶつぶつ書いているけど、撮るものに新しい展開を生み出せないでいるからなのではないか?と自己分析したり。
 当たり前の日常の街をスナップしているのだ!などと思っていても、そういう日常スナップに熱を上げ始めた頃には、いままでカメラを向けるなんて考えもしなかったのに急に面白く見え始めた日常に隠された被写体、というのが新たに生まれていて、それが私の場合には、カバーが掛かった自家用車、とか、舗道の割れ目から生えてきた植物とか、あるいは上の写真みたいなものすごく生い茂ってきた雑草とか、ほかにも昭和のころの三角屋根の住宅、平屋の市営住宅風の家、街に貼られたポスターやちらしの人や動物がそこに貼られているあいだにやぶけたり水を吸ったりして「新品ではなくなっている」状態、とかだ。
 そういうのを面白い面白い!とここ数年ずっと撮ってきて、そのうちに自分でも気付かないうちにマンネリに取り囲まれていて、撮るときに「いいねー!」と感じるそのレベルが下がっているのに違いない。そうすると、やっぱり写真には撮った人の気分が写りこむから、その写真がつまらなくなっている。ということだろう。
 だから、マンネリを脱するためには、もっとありふれたところに何か特別なことを見出さなければいけないのだ。

 佐野元春のソングライターズというような名前のNHK教育の番組があって、それに先々週だったかな、くるり岸田繁がゲストだったので録画しておいた。先日、それを見た。そしたら佐野が岸田の詩について「平易な言葉で作られているので、聴く人の経験によって意味が変容する。間口の広い詩」と称していて、なるほど上手いことをさらりと言うなあ、と感心した。
「ありきたりの光景を写真にしているので、見る人の経験によって意味が変容する。間口の広い写真」というものを撮ってみたいものだと思うのです。
 

 ひと月ぶりくらいに、茅ヶ崎南湖海岸にある流砂対策の砂山ストックを見に行ったら、柔らかそうな草が山を覆っていた。


住宅地の中に空き地、すなわち原っぱがあるのって特に子供にとってはとても大事なことかもしれないな、なんて思いました。空き地の中には雑草に混じってぽつぽつとコスモスが咲いていた。鵠沼です。


 余白やさんが、屋台古書店で店舗を再開。さっそくお邪魔する。今朝、茅ヶ崎海岸を自転車でうろうろしているときに、なぜだか鼻歌でシカゴの長い夜なんかが出てきたのだったが、余白やさんと話していたら、どういう話の流れからだったかやっぱりシカゴのことが出てきた。ちょっと面白かったな。
詳しくはhttp://profile.ameba.jp/yohakuya/