想い出の・・・


 1980年代前半には、ちゃんと望遠レンズなんかを持って、毎週のように湘南に通っては(当時は横浜に住んでいた)、写真を撮っていた。そのときには浅井慎平とか片岡義男の文庫の表紙になっていたような写真がお手本としてあって、そんな写真ばかりを狙っていた。上も下もその頃の写真です。
 なんでそんな古い写真を持ち出してきたかというと、二つ理由があって、どうも最近撮っても撮っても気に入った写真が撮れない。というのがその一。
 もう一つの理由が、土曜日の朝日朝刊に挟まってくるbe on Saturdayという別紙の「うたの旅人」という連載コーナーの今日の回がブレッド&バターの「ホテル・パシフィック」を取り上げていたから。
 もちろん歌の舞台は茅ヶ崎で、記事には、加山雄三ブレッド&バターの岩澤家と既に取り壊されたホテル・パシフィックのかかわりが説明されていた。

 それを読んでいて、私も自分の個人的なホテルパシフィックとのかかわりを思い出してしまったのだが、これがしょぼい思い出でございまして・・・
 たぶん十歳か十一歳か小学生の高学年の頃の私と、父と、父の同僚のS野のおじちゃんと、私より一つ年下のS野くんの四人で、手に入れたばかり(だったのだろうと思うのだが・・・)自家用車を父が運転して、住んでいた平塚市から茅ヶ崎パシフィック・ホテルのレストランに夕食を食べに行ったことがあった。何かの記念だったのかな?外食なんか滅多になかったし、その外食もせいぜい梅屋デパートの上階の食堂に行くことばかりだった。
 そんなだったから、ホテルのレストランで、ちゃんとした給仕がいて、ナプキンが置いてあって、そのナプキンの両側にナイフとフォークが置かれている、そういうのは全て初めてだったかもしれない。あるいは初めてではなくても、それを大人のようにちゃんとこなそうと思うように意識してから、そういう場所に行くのが初めてだったのかもしれないな。
 そのとき私と、S野くんは、なにかポークソテーか・・・ビーフステーキではなかったと思うのだが・・・肉料理を頼んだ。しばらく、はるか下に見渡せる国道の車やら海やらを眺めたりして、それでいよいよ料理が出てきた。父とおじさんが何を食べたのかは忘れた。とにかく私とS野くんの前に、頼んだ肉料理がどんと置かれた。その瞬間、私はなんというかものすごい不満な気持ちを覚えたのだった。
 S野くんの肉の方が私の肉よりも1.5倍くらいも大きかったのだ!

 今日の新聞によればホテル・パシフィックが開業したのが1965年。加山雄三のおじさんによる経営が破たんしたのが1970年。その後、経営が移ったものの、1988年には営業停止したとあった。私の記憶が正しければ、営業停止後も駐車場だけは使われていて、1990年代前半までは建物は壊されずにいた。そのあと壊されて、いまはその場所にはなんか南欧風みたいな低層マンションが建っている。
 私が比較上小さな肉料理にがっかりしたのが10歳だったとすると1967年、最初の経営の頃で、ホテルはリゾートマンションとして「週末には芸能人がプールサイドに来ていた」(新聞より)頃だったのだな。

 それにしても、あの肉の大きさの差といったら一般的常識を逸脱した差だったと思うのだ。

 ブレバタのホテル・パシフィックの歌詞が新聞に掲載されている。若いころに聞いた曲ってちゃんとメロディが記憶されていて、歌詞を読んでいたら曲を思い出した。
 ブレバタにはピンク・シャドウという名曲がありますね!

 同じく茅ヶ崎が出てくる歌は、勝手にシンドバット初め多々あるのだが、ユーミンの流線型80に入っている♪茅ヶ崎までのあいだ相模線に揺られてきた♪という歌詞のある曲がある。こういうのを聴くと、これも子供のころ、平塚駅から相模湖行きのバスに乗って相模湖まで父に連れて行ってもらい、そこでバッチを買って(当時、観光地でバッチを買うことが大好きだったのだ)から電車で帰ってきたことがあった。
 あのとき橋本から茅ヶ崎まで相模線に揺られて戻ったとき、非常に曖昧な記憶なのだが、気動車ではなくて客車に乗っていたように思うのだ。C11かC12か、そのくらいの小さな蒸気機関車が牽引していたのかな?

 こんな風に曲を聞いてそこに歌われたことから個人的な記憶が蘇るのだから、地元が歌われた曲があるということは贅沢なことなのかもしれないですね。

 というわけで、古い湘南ぽい写真を持ち出して来ました。