木村友紀「無題」


 三島からシャトルバスに乗って、クレマチスの丘という美術館やレストランやクレマチスガーデンやらが点在している観光施設内にある伊豆フォトミュージアムまで木村友紀展「無題」を見に行ってきた。
 天気予報は今日も雨だったのだが、昼前には雨が上がって、正午には強烈な日差しも射すようになってきたので、一日中家にいる予定でいたのを急遽変更して。13時55分くらいに美術館に到着し、15時5分くらいまでずっと木村展会場にいて、15時15分発のシャトルバスで三島に戻った。シャトルバスが一時間に一本で、16時15分の最終バスは混むような気がしたりして、そそくさと帰った。こううい場所はやはり自家用車で来た方がいいですね。結局、写真美術館以外の施設にはどこも行かなかった。
 三島に着いたのは13時10分くらいだった。シャトルバスまでに30分程時間があったので、駅北口に隣接している寿司屋(沼津港だったっかな・・・)で地魚七貫のランチを食べた。美味しかった。でも寿司が出てきたのがバスの出る15分前だったこともあり、明らかに間に合うのになんとなく急いで食べてしまうのだった。こんなのもジジイになりつつある現象なのかな。

 展示は最初二周ほど鑑賞してから、学芸員の方の作品解説の時間になったので、他に若い二組のカップルと一緒に説明をゆっくりと聞いてみた。写真を使っているとは言え、現代美術の作品であって、それを読み解くためには解説を聞くのもいいかもしれない。しかし独自の、作家の想定外の勝手な解釈をでっち上げると言う鑑賞の方が、却って正しいのではないのか、という気持ちもある。こういうのは、昨日のブログに延々と訳も判らず書き連ねた「音楽の聴き方」みたいなことと相通じる。そもそも木村がこの展覧会に付けたタイトル「無題」という題の所以は、フライヤーに書かれた解説によれば「これまでの活動の中でゆっくりと熟成させてきた、イメージと支持媒体との関係や写真の事後性などについての考察を、ストーリーやキーワードを排し、作品そのものによって実践的に表現しようとしています。」と解説されている。しかし、こんな解説を付けることで、そこに既にテキストによる安易な説明による導入の入り口が開かれてしまうのではないか、というイジワルなことも思いついてしまう。ファウンドフォトを素材にして、そこに様々な仕掛けを加えるのだが、その仕掛けの「意表の突きかた」とか「仕掛けの理屈あるいは法則」というのを読み解くと作品の意味みたいなことがさーっと広がる。謎賭け、あるいは、なぞなぞを仕掛けてくる感じかな。画像の中に写ったものと現実にある全然別なあるものとを視覚的類似性から関連付けたり、あるいは写真に写ったものと同じような実際のものを重ねてみたり、というのは、実はとても遊び心に満ちた行為、もしかしたら「遊び心」なんていう大人視点のことではなくて「幼児の遊びそのもの」のようにも思える。しかしこちらは鑑賞者として現代美術は小難しいという先入感と、同時に今まで見たこともない作品と対面するというぎくしゃくした感じと、その二つからその「遊び」を楽しむような体勢になかなかなれない。そういうことがあるので、学芸員の方の解説を聞くのは理解を助けてくれて大変ありがたかったが、しかし、これもやはり「無題」というタイトルの意図とは正反対のことで、本当は解説を全て否定する別の見方を探すのが楽しみなのかもしれない。

 三島に戻ってから、一時間ほど市内を適当に歩き回る。今年の正月に三島大社に行ったときには歩かなかったのだが、適当に歩いていたら、小さなスナックやバーや、あるいはソープや、そういう店がぎっしりと並んでいるような街に入る。こういうところを歩くのは昼間でもちょっと怖いですね。息を潜めてしまう。物陰からこっちを伺っている怖いお兄さんとかがいませんように!
 それにしても日本の地方都市って人口に対する歓楽街の店の数って、すごく多いんじゃないのかな。地方都市の人口が減っているのに(三島がどうなのかは知らないけど)、昭和のころの街がそこに残っているせいなのかな?
 いろんな街で、歓楽街の広さと店の多さにぎょっとしたことがあったのを思い出した。私が下戸ではなく、しかも飲み屋のお姉さんみたいな方との軽口のかわし方みたいなことが「お上手」だったりすれば、田中小実昌のようにこういうところを歩いても、息を潜めることなく楽しむのだろう。って、それじゃ私じゃないのだけどね。私じゃない私に憧れるのはこういうことでしょう。