須田一政写真塾10月例会


 写真は神田あたりの小さな路地に面したドアのノブ。

 今日は須田塾だった。来年1月に久々に予定された須田塾修了展に展示する写真を、ここ6ケ月のあいだに須田先生が選んだ写真から、組んでもらう。この6ケ月のあいだに選んでいただいた写真は300枚か400枚か、そのくらいはあって、そこから27枚を選んでいただく。更に展示までには12〜15枚くらいに絞り込む必要がある。夜の写真や、古い写真を接写したもの、そういう写真が多い。撮影枚数からの分類だと私の場合は晴天の建物とかの写真が占める割合が高いのだが、いつもグループ展等の写真の選抜を行なっていただくと、残るのはこういう傾向になる。自分で選んでもそうなることが多いので違和感はないのだった。
 他の人の写真には、数か月分から選抜されると、毎月の例会の印象をがらりと変わるものがあった。写真の組み方により随分と伝わるであろう印象が変わる。なんて、字にすると当たり前に思えるが、驚かされるのだった。

 塾後の飲み会。写真を撮ってから撮れたものを確認するまでの時間について、デジタルカメラはそれが「すぐ」に液晶画面で確認できる。そこがよくて、そこがダメでもあるのか。フイルムで撮ったときには、その写真を見るときまでの時間(現像のための時間やプリントの時間)のあいだに、どんな写真になっているかいろいろと妄想をする。その妄想の結果、過去に撮った写真の未来に出来上がるプリントに変化はないのだが、それでもその妄想の結果は、次に写真を撮るときになにかの心の作用となっている・・・のではないか。なんてことを、ここひとつきと半のあいだにデジタル改宗してしまったTIさんにしゃべる。まるで、その改宗を咎めているようにしゃべっている自分なのだが、自分はすでに5年か6年前からデジタル改宗しており、しかもいまはその改宗度合は90%くらいまで純度を高めてしまっている。たまに、リハビリと称してなのか?、フイルムに戻る時期があるものの。例えば今年の初夏の頃がそうだったかな。
 自分は改宗してしまったが、フイルム派には頑張っていただきたいという思いがあるのだった。
 そこから話が飛んで・・・いや、飛ばしたのは私自身なのだが・・・むかしの恋愛は、電話ボックスまで小銭を持ってとぼとぼと歩いて行き、電話しても話中だったりすると一体誰としゃべているのだろう?と不安になり、待ち合わせも、どちらかの電車が遅れたりすると、その理由が判らないことが多いままぽつんと待ち合わせ場所にいて、あきらめる時間を先送りしたりして、とにかく携帯電話やメールなどの即時状況通信手段がなかったことによって、妄想する時間が今よりずっと長くて、その妄想の積み重ねと現実との差分と、その差分の学習と学習の効果、なんてことの繰り返しが、恋愛における人と人の絆のようなことを深めていて、世の中は今よりずっと芳醇な恋愛に満ちていたのではないか、なんておじさんたちの戯言会話になる。すいません、そのときに私の周りにいたのはだいたい同年配のおっさんが私を入れて三名で、あとは亞林さんなのだが亞林さんは、おっさんの気持ちがよく判るお兄さんなのだった。
 するとTIさんが、それでも(携帯電話などが発達して通信の即時性が上がっても)それでも連絡が付かないことがあると、それは昔は楽観的なこともあった妄想とは違って、大抵は緊急的かつマイナスな妄想に成りがちなのではないかと指摘してなーるほどなあと思った。
 大変なのである。なんでもスピードアップしていて、そこに乗りおくれると発展的妄想が起きる可能性は激減し、とにかく懸念なのである。現代は。

 飲み会で食べたもの。モツ煮こみ、焼き鳥盛り合わせ、串カツ、秋刀魚の塩焼き、ラーメンサラダ、ガーリックチャーハン、水餃子、エイヒレ、ほかにも何か頼んだと思うが忘れた。
 あ、ひとつ思い出した。煮卵でありました。