深夜のエレファント・ファクトリーの居心地のよさ


 家族のSとMは寝坊しているので一足先に一人で奈良へ。薬師寺唐招提寺を一人で見て回る。
 奈良へ来るのは、高校生のときの修学旅行以来、およそ四〇年ぶりではないか・・・。そして、その奈良で一体どこへ行ったのか?かすかに覚えているのは、グループ行動で歩いた山辺の道(なのかな?そういうハイキングコースの一つです)くらいで、あとはちょうどトランプのナポレオンだかが大流行していて旅館でもひたすらトランプをやっていたようなことくらいしか覚えていないのだ。法隆寺東大寺興福寺薬師寺唐招提寺へも行ったのに違いないはず(だろう、普通。修学旅行なんだから・・・)なのだが、一切覚えていない。
 昼ころにMと近鉄奈良駅で合流する。東大寺大仏殿はホックニーのコラージュ作品のことばかり思い出す。ホックニーのコラージュになった大仏を見たいという思いで、そこに向かっていたようだ。そしてホックニーのコラージュをみて感じた「でかさ」をそこに見たいと思っている。なんか屈折した感情だな。

 京都に戻り、家族で夕食。そのあと、一人で夜の四条河原町高瀬川の周りあたりの繁華街を写真を撮りながら歩く。フォトグラファーズ・ハイといった瞬間があるとすれば、だんだんとそのハイに向かって行くようだった。

 そして、23時にはエレファント・ファクトリー・コーヒーでマンデリンを飲んでいた。カウンター席の左には盛んに煙草をすいながら、何か原稿を(手紙を?)書いている若い男。右には若いカップル。カップルはやがて去り、すぐに女性一人客が来る。DMのようなものに盛んに住所を書く作業を開始している。左の男性が去る。すぐにまた若い女性が来て読書を始める。そんなふうな、肩が触れるような小さな場所なのに、自分の場所は小さくても守られていて、そこにいると安心に包まれているように感じられる。その場所で、私は店にあったウイリアム・バロウズの評伝の本の第一章だけを読み終える。
 チャーリー・パーカーの古いジャズが流れる。

 それなりの人数で一泊の出張をした翌日が土曜日で、まあ、どうせなら、どこかへ寄ろうか・・・と、会社仲間でふらふらしたことは長いサラリーマン生活の中では当然何度かあって、だからこのぼんやりとした「感じ」がよく判る。



 それにしても、先日から陥っている「自分が自分の写真を選択するときの理由」は何なのか?をまだ考えている。一方で考えていること自体、きわめて稚拙な堂々巡りにはまっている感じが否めなかったり。