孤独(まがい?)


 藤沢の有燐堂五階の古書コーナー(近隣の古書店が棚を出しているコーナー)で久保田万太郎小品集「よしや わざくれ」という本を買って、タリーズで珈琲を飲みながら早速めくってみた。そこに収録されている「かまくら雑記」(1)の「孤独」という文章には「群集の中に孤独をみつけるのは容易だ。が、おのれの中にそれをみつけるのはむずかしい。」とだけ書かれていた。
 25日の夜、京都のエレファント・ファクトリー・コーヒーで感じていた居心地の良さは、安心な孤独(まがい?)の心地よさだったのかもしれないな。とかなんとか、こんな文章を読んで、ふーんとか思ってみたりしている休日の午後のおっさんであります。

 写真は金沢文庫金沢八景でのスナップ



 このブログを書いているときにテレビでTAROの塔岡本太郎の幼少からを描いたドラマ)の第一回の再放送を付けていて「ながら見」をしていたのだが、小さな四歳か五歳くらいの岡本太郎が、父親に「芸術家とはなんですか?」と聞く場面があった。すると父親が、(既に記憶が曖昧ですいませんが、確か・・・)「それは地獄を見てしまった人のことだよ。世間の常識や習慣に面と向かって問いかけてしまった人だよ」(うーん、既に全然違ってたりして・・・)みたいな主旨のことを答えていて、そこだけちょっと気になるのだった。
 音楽を聞くときに「もう聞き飽きたよなこういう音楽」とか、聞き飽きてはなくて「いいね」と思うものであっても「ああ、この手の音楽ね」と既存の分類の中にすぐに仕舞える前提で安心のもとに聞いている。そうではなくて「げっ!なにこれ?すげえ」「こんなの聞いたことないよ!」と思ったことってごくたまにしかなかったけど、なくはなかった(50年代や60年代にはいろんな分野でしょっちゅうそうだったのかな・・・)。しかもその斬新に聴衆が魅せられたとしたら、その音楽の作り手は芸術家というだけでなく同時に聴衆の支持をも得た「成功した芸術家」ってことなのか。だけど成功してしまった途端に、それは世間の常識へと取り込まれ始めていて・・・。だから時間を横軸にした中での瞬間の微分値だけでも突出しているその瞬間だけが芸術家であったとしてもそれを持続するのは難しいことだろう。常に何かを切り開いてきてその微分値を何度も持ち上げてきた稀有な人が巨大な芸術家だとしたら、それを鑑賞者側がちゃんと全て知るというためには、よくある回顧展のように、その人の個人史を同時にテキスト等で知って、理解していることも、それはそれで必要なことなのかもしれないな。でも全て知る必要はないわけで、その微分値を感じられる鋭敏な鑑賞者になりたいものだ、とか思ってみたり。ケッ!青臭い??
 まあ、世の中では、みんな「なんちゃってアーティスト」だから、どうでもいいんですけどね、芸術なんて。