満開の桜


 今日の昼、丸の内新丸ビルのレストランに入ったら、ランチメニューのなかにクスクスがあった。クスクスという料理があることは知っていたが、どういうものかよく知らないし食べたこともなかったので、エビカレーとクスクスというのを頼んでみた。するとスープカレーのようなサラサラのカレーと、楕円形平皿に載ったクスクスが出てきた。はてさて、これは通常のカレーと同様にカレーをクスクスに掛けて食べるものなのか?それともスープカレーのように、スプーンにクスクスを載せて、それをカレーに浸して食べるものなのか?そこのところがよく判らないので携帯電話でウェブにアクセスし「クスクス 食べ方」とかなんとか入れて検索してみた。でも検索下手なのか、うまく見つけられず、冷めてしまうのも嫌なので、クスクスの更にカレーを掛けてみたり、今度はスプーンにクスクスをすくってカレーに浸してみたり、なんとなくなんとなくで食べていたら、なかなか美味しくて、すぐに食べ終わった。

 それから、家族のMと二人で千鳥が淵の桜を見物しつつ散歩する。ものすごい人出でゆるりゆるりと人波に混じってゆっくり歩くしかない。途中でUターンし、市ヶ谷の方へ歩く。どこかでコーヒーを飲んで休みたいのだが、どこも満員。とうとう市ヶ谷駅近くまで来てしまってからドトールコーヒーに空いている席を見つけてやっと滑り込む。コーヒーを飲みたいと思っていたのに、急に冷たいものを飲みたくなり、オレンジジュースを飲んだ。

 帰宅後、夕食を食べてから、午後7時半より三脚と24mmの単焦点レンズを付けた一眼デジカメを持って散歩に出る。9時過ぎに帰宅。

 人が実景を見ているときに目の前に展開する現実の「動画」を、なんというのかな「面」として全域を見るわけではなく、どこかを注視している。その実景のどこかを注視しながら写真を撮って、出来てきた写真を見るときには、もちろん写真を見る時間が一瞬しかなければ実景同様写真のなかのどこかに注視しているのだろうが、もっと時間的に余裕があれば(そしてそれが写真を見るときの通常なのだが)、写真をくまなく面として見ることになる・・・んだと思う。そうなると、写真を見る目は実景を見るより厳しくなるってことがあるのではないか?
 と言う風に思ったことがあった。それはもう五年か十年前に、どこかの町を歩いていたら満開の桜がマンションの前に咲いていてものすごく美しかったから写真を撮った。写真を撮ったときにもちゃんと気付いていたのだが、桜の樹の下にはこれから回収されるのだろうゴミの袋が山積みになっていたのだが、それでも満開の桜が圧倒的に美しいのは事実だった。ところが写真になってみると、美しい桜は美しくそこに写っているのだが、ゴミ袋の山があることで、全体としてはなんだか汚いというか臭そうというか、写真を全面的にきれいとは思えず、どころがどちらかというと汚く見えたことがあったのだ。
 このゴミ袋の山に相当するものの写真における不適性みたいなことを、もしかしたら白黒写真は緩和できるのかもしれないと思うことがある。あるいは、この不適性に至る物は世の中にたくさんあって、それをいかに避けるかが画面構成の上手い下手(=写真の上手い下手)になるのかもしれない。よく、写真コンテストの評で書かれる指摘はそう言う考え(不適性の排除)を中心に行われているのかもしれない。
 だけど、もう一つの考え方があって、ゴミ袋があったとしても、それも含めてそのまんまに写した写真を見て、目の前の「動画」と同様に、ゴミがあろうがなかろうが桜の美しさを評価する(ゴミが写っていることを不問とする)写真の「見方」が出来るようにならないものか?ということなのであります。それは写真を撮るものとして、あまりに傲慢なことなのだろうか?でも写真でなくそこを通ったときには、ゴミがあっても桜はきれいだったという事実があるのだから・・・
 ところで不適性を有するとされるものは、年々変わっていくかもしれない。不適性に対する許容度が増していることがこれからの写真にとって撮る方も見る方も求められることかもしれない。・・・あ?なんか最後は強引にまとめてしまいました、とほほ・・・