まるで梅雨のころのような日


 午前、ポストを見たら田町のフォト・ギャラリー・インターナショナルから須田一政写真展「雀島」のフライヤーが届いていた。昨年、千葉の海岸にあるとある岩をずっと撮っている、という話を、ときに失敗談も含め、何回か須田先生からお聞きしていたので、写真を見に行くのがとても楽しみ。会期は9/1-29、日祝休廊。月〜金は11時から19時、土曜は11時〜18時。9/15には評論家の倉石信乃氏と須田先生のトークショーもあるとのことで早速ギャラリーにメールして予約する。

 昨日午後より天気崩れる。昨日は夜までずっと大雨が続いていた。今日は雨こそ落ちていないが、低い雲がずっと流れている。まるで梅雨のころのような天気だな、と思い、でももう昼の時間は梅雨のころよりずっと短いのだった、と気づいてしまう。誰だったか、夏至を過ぎてしまうと夜が長くなっていくから悲しいものだ、と、夏至の日の新聞に書いていたのは。温度が何度なのかは判らないが、体感的には25度くらいだろうか。
 今日の午後、茅ヶ崎の海まで行き、三脚を立てて、NDフィルターを重ねて取り付け、小さな三脚なのでカメラのファインダーをのぞくために身体を屈める(私のDSLRはライブビューボタンが壊れていて効かないが、面倒だから修理していない)。ISO感度をスナップ撮影のときより低く設定し、マニュアルで絞り値とシャッター速度を適当と思われる値に設定しては試し撮りし、液晶に映し出される撮影結果を見ながら修正する。少し露出オーバー目にしたいが、液晶画面を屋外で見ていると、それがどのくらいの露出で撮られたのかなかなかわからないから、どうしても「数撃てば当たるだろう」作戦にならざるを得ない。小さい三脚だからシャッターボタンを押しただけでぶれてしまうので、2秒のセルフタイマーに設定してぶれを防いだりもする。水平を出すのが一苦労だ。屈んでファインダーをのぞいて、でもNDフィルターが被せてあるからファインダー像が暗くてよく見えない。だから一生懸命に目を凝らす。三脚の三つの足の長さをいじって水平らしき状態に調整する。そんな風に撮影現場であれこれとやっていると、いくら涼しくても湿度は高いから、ぽたぽたと汗が垂れて落ちた。上の写真みたいなのが撮れました。

 昨晩から明日まで三夜連続SLOW LIVE in 池上本門寺という野外音楽イベントがあることを、木曜日の朝刊の宣伝で知った。昨日の金曜の晩にはハンバート・ハンバート大貫妙子が出演するということで、晩夏の暮れゆく空を見上げながらハンバート・ハンバートを聴くのもなかなか乙なものではないか!と思って、行く気満々になっていたのだが、昨日は午後からの豪雨でさすがにあきらめた。あの豪雨の中、野外ライブに行った人はどんな風だったのだろう。たぶん、それはそれでなかなかに楽しいことになったのだろう。
 雨の中でライブを聴いたことが、私にもあっただろうか?意外とそういうこと、覚えていない。

 アサヒカメラの8月号、連載のホンマタカシの対談「今日の写真2011」ではゲストは美術評論家椹木野衣氏。対談の途中で川内倫子の新しい写真集ILLUMINATIONをきっかけにこんな話をしていた。椹木(以後敬称略)が川内の写真には「身の危険をうかがわせる」写真と「見る人の生を癒す力のある」写真の両方があると指摘する。それに対してホンマが、川内の写真のような「日本的アニミズム」を感じる写真がはやっていて、公募展にもそういう写真で応募してくるものがたくさんある、という現状を話したあとに「一人の人が出たことで、みんなが同じように感じて、同じように表現しようとしている」と言う。椹木はそのホンマの指摘に対して、例え(そういうフォロワーの写真が川内よりも)劣化していても大量にコピー(川内のテイストを追いかけた写真)が出てくるということは、そこからまた何かコピーを超えるものが出てくる可能性が大きくなっていることなので肯定的にとらえている、といった発言をしている。絵画の時間軸での変化は「個と個が向き合って前の人を乗り越えて先へ行くという歴史弁証法」だが、写真は、その写真を撮ったカメラマンに「表現」をしよう、という意図がなくても撮れてしまう、という点で絵画とは違う特徴があり、だから、コピーがいっぱい出てきた方が変異を呼びやすく新しい写真も出て来やすい、と応えている。

 絵画は真っ白い新品のキャンバスに何かを加えて作品を作る。写真はすでに目の前に展開している光景から「ここをこう選び取って切り取る」という引き算で作品を作る。なんて考え方を選ぶのは、すでに相当古典的なのかな?まあいいや。それで、写真家は、だから「どこをどう切り取るか」に相当に力点を置くべきということが導き出せる気がするが、実際にはノーファインダーの偶然がもたらした画角に写真家自身も気づけなかった新しさが現れたりする。でもきっと絵画でも、アクシデントに何かをゆだねるとか、目隠しをするとか、乱数表で色を選ぶとか、よく知らないけどそういう偶然性で「前の人を乗り越える」試みもあるのだろう。
 ところで、流行の写真の一つには、なるべく被写体が少なくて画面の多くがただ白い、というのがあるのではないかな。はたして、そういう流行を知らなかったら、私は上に載せた写真を撮っただろうか?あるいは選んだだろうか? 小説で言えばレイモンド・カーヴァーのようにミニマムな小説というのがあるが、わずかの被写体、わずかの筆、わずかの文章、で作品を作るという指向は、どういう心境から来るのかな。
 まったくもって、いつでもフォロワーの私は、そういう写真をたぶんいまは好きなのだろう。極小でも、変異が起きないかな。

 写真を撮ったあとに久しぶりでカフェ・ハッチに行ってみた。コーヒーを飲み、ちょうどハッチで絵画展をしている画家の方と少し話す。

やっとかめ

やっとかめ

センチ久々の新譜。買おうかな・・・