ぶれ写真を選ぶ理由


 夕方、三宅一生がパリコレに出展した服を、その後、NYのアーヴィング・ペンに送り、ペンはその服をモデルに着せ、そこからポーズを作っていって写真作品に仕上げていく、というジャズのインター・プレイのような結果の写真展「アーヴィング・ペンと三宅一生」展を六本木の21_21デザインサイトに見に行く。
 その途中で、広尾の1223現代絵画に寄って長島有里枝「What I was supported to see and what I saw」も見てくる。長島展はそういうタイトルの写真展だが、昨年赤赤舎から出版された写真集「SWISS」に収録された植物の写真も多く使われている。
 より詳しく書くと、ドイツ語と英語で見開きの左ページに解説が書かれ、右ページに代表作品が掲載された、美術家一欄のような本の、たとえばリヒターのページに折られた一輪の雛菊(?)の花が置かれている、そういうシリーズが五点。植物園の植物の枝葉の向こうに隠れるようにある、植物の名前や原産地を示す解説プレートをとらえた写真が六点。滞在中のSWISSのゲストハウスの壁に貼られた祖母の撮った花の写真・・・いや、祖母が昔取った複数の花のカラー写真が並べて貼られた壁の写真、と書くべきかな、そういうのが二点。そして、解説によれば、その祖母の写真が後押しとなって撮ったという庭の植物の写真が七点。という構成の写真展。解説プレートとか本とかには言葉があって、だけど日本人の私はそれが外国の言葉であるということだけがわかり、ほとんどの意味は不明である。辞書を片手に、もしくは乏しい英語力を総動員して、写真に写った言葉を読んで、少しは読解しようなどとは全く思わないから、そこに意味が不明だが言葉がある、ということだけで写真を見ている。意味が不明な外国な言葉というのを見て何を感じるかは個人によっておおいに違うし、あるいはこういうくくりはあまりに大雑把で安易かもしれないが「世代」的な差もあるのではなかろうか?
 私なんか、異国情緒とか(対外国)コンプレックスとかそういう、もしかしたら島国根性みたいな感覚が根強くあると思う。要するにアルファベット文字を見ただけでかっこいいみたいな安易な感情が発生してしまう。
 幼稚園生だった1962年くらいに、幼稚園でお絵かきをしていた。私はずいぶんと暗い色合いの夜の船の絵を描いていたのではななかったか。それは大きな貨物船のような船。そしてその船体に、そのころに形として覚えていたのだろう、いくつかのアルファベットを書いてみた。すると回りでお絵かきをしていた「おともだち」がにわかに騒ぎ出した。それはカッコいいという賞賛や、英語だ!という驚きの声で、私はきっと意気揚々となったと思う。
 そういう感じが今も心の奥底にずんと消えずにある。同じメッセージが書かれていても、日本語で書かれたTシャツと英語で書かれたTシャツがあれば後者を買ってしまうだろう・・・ちょっと違うかな?
 それで長島有里枝の写真を見ても、そういう感情がまず出てきてしまうのだが、その次に「待てよ、それでいいのか?」という疑問が生じる。
 以前、アンディ・ウォーホルの展覧会に行ったときにも、たとえばキャンベル缶の絵を見て、私(あるいは日本人)が感じていることとアメリカ人が感じていることの違いは、ずいぶんと大きいのではないか、と思ったがどうなんだろう。
 同じものの色が私とAさんに同じに見えているのか?といったタイムパラドックスじゃないけど、そういう疑問があり得るのかどうかも含めて不明なことがあるように、言葉が含まれる写真を見たときに、その言葉の意味が判る人がその写真を見て思うことと、判らない人が思うこととのあいだには、深い溝があってしかも、その溝を言葉でまた埋めようとしてもたぶんそう上手くはいかないのだろう。
 それで、ちょっとこの感情を肯定するのは正しいのかどうか?と疑心暗鬼になりながらも、私はその野の花が置かれた本の写真が気に入ってしまう。

SWISS

SWISS

 六本木美術館を出てから、そのあたりでビルのあいだから見える東京タワーを写真に撮る。ぶれないように、何枚も連写モードで撮る。帰宅してチェックすると、ちゃんんとぶれていない駒が撮れている。しかし、写真を眺めていると、最後の一コマ、一番ぶれている一コマが一番何かを秘めている気がしてしまう。
 空の雲が浮き出るように、フォトショで加工して、その加工で露出がぶっ飛んでしまったタワーのところだけまたレイヤーで補正する。するとこうしていかにも覆い焼きをしたようになった白黒写真。