朝の散歩


 6時半ころに起きて、テレビを付けてみたら、ラジオ体操をやっている。テレビなのにラジオ体操という名前でいいんだっけ?たぶん、ラジオ体操第二。そこでベッドから出て、テレビに合わせて体操をして目をちゃんと覚ます。年に一度くらいだけ、テレビを付けるとラジオ体操が映って、それで一緒にやることがある。前の晩にテレビを消したときにNHK教育(いまはEテレって名前なのかな)にチャンネルが合わせてあり、休日で、ちょうどその時間に付ける、という条件が重なったときだけ。平日はもっと早く起きているから休日に限る。
 ラジオ体操というのは見本のとおりに体を動かしているつもりでも、はたから見たら見本ほどきれいに美しくは動いていない。小学生のころの夏休みラジオ体操とかでも、ほかの人の体操をしているところを見ているとそういうものだったから、自分だってへなちょこで不細工な恰好をして動いているに違いないのだ。部屋で一人で体操をしているというのに、そういうことが思い出されて、人の目を意識するように、少しでもうまく動きたいものだなどと考えてしまっている。小心者ということなのか。それとも、ええかっこしぃ、なのか。
 体操のあと水を飲み、トイレに行き、新聞を取ってくる。新聞をぺらりぺらりとめくってななめ読む。テレビで製紙会社の元会長が十億円、カジノで遊んだニュースとかをやっている。いまだこんなアホがのうのうとできている隙間があるのなら、ある意味、いまの日本も捨てたもんじゃない、などというのは相当うがった見方なのか。
 チャンネルを回していたら阿川佐和子トーク番組のゲストに綿矢りさが出ているのに行き当る。のほほんとのんびりとした方なのね。俳優にしても歌手にしても野球選手にしても作家にしても、要するに有名人が、そのプロたる分野での露出、すなわ映画とコンサート(またはアルバム)と試合と小説と(その限りじゃないけど)、そういうこと以外で自らを露出するってことは最近とみに増えているのか?人は人と知り合うことだけで基本的にそこに愛情(広義)が生じるようなことがたぶん生物学的には生存の原理のひとつになっている(いや、またテキトーなことを書いているかも)。だからこうしてテレビでりさ氏の人柄を知ると彼女の本を買う人が増える。というのがトーク番組の出演者側の狙いなのだろうな。あれ?なんか当たり前のことを言っているだけか?さて、そのりさ氏、のらりくらりと佐和子女史の質問をかわす。
 そのあと朝食を食べてから、カメラを持って、外に出る。家を出たときにはどうするか決めていない。鎌倉あたりまで行くか、それともこのあたりを一、二時間くらい散歩をしてくるか。朝の空気はひんやりとしている。
 近くの田園地帯を一時間半ほど歩いてくる。歩きながらなにを考えていたのだろうか?帰宅してこうしてパソコンに向かっている今、考えていたことの一つも思い出せない。路地の角で、あコスモスが見えるからあっちに行ってみよう、とか、古い捨てられたバスがどうなっているか見てこよう、とか、その選択の理由があったことはだいたい覚えている。しかし、それではコスモスに行きつくまで、バスに行きつくまで、歩きながらなにを考えていたのだろう?
 撮ってきたばかりの写真は、たいていはあまりいいと思えない。後日になって見た方がいいと思う写真がちょっとだけ増える。でも今日は、私の気分の問題に過ぎないのかもしれないが、いきなり好きな写真がたくさん撮れていると感じられるできばえで、エグルストン風じゃん!とか勝手に満足。
 あ、ひとつだけ思い出した。航空という字は「こうくう」で、空港という字は「くうこう」なのだが、小さいころから、私はこれを間違えて逆に読んでしまいそうな気がして、読むのも書くのも、一呼吸、頭のなかでどこか別の回路を経由して間違わないように留意をしているようにしている。ということを歩きながら思い出し、そこから、ほかにもこういう単語があったけかな?と考えていたのだった。それだけ、今、思い出した。