半夏生


 これは6/30(土曜)の写真。金曜日の夜にたどったのと同じコースを、快晴の土曜の午前に歩いてみる。野毛界隈の金曜の夜は店の前の道にまでテーブルが並び、会社帰りの客が、わいわいと飲んでいて、しかしそういうところにカメラを向けるのは怒られそうだから撮れない。だいたいが、写真を撮るなどという部外者的行為はそれだけで怪しい。ところが今度は土曜の午前、その界隈の店はもちろんシャッターが降りていて、人影は少ないかわりに、こんどは撮りたいところが見付けられない。
 さまざまな価値基準があるけれど、その一つに『ありふれた誰でもそこに居たり行ったりが出来る場所のなかから、すなわちあたりまえのなかから、写真を切り出して、それを写真として再提示されたときに新しい何かが提示される(すなわち見る者がいままでにない感情のざわつきを覚える)。それが出来たときにそれだけが価値のある「新しい写真」である』というのが、たぶん、あるんでしょう。なんかそんなことが書いてあるのを一度ならず読んだことがある。それに同意するとかしないとかはさて置いたとして、すなわち快晴の土曜の午前の野毛で、再提示すべき切り出すところを、見つけられない。
 なんだ、なんか昨日なにかのテレビで見た、砂金探しみたいだな。そんなことに執心してどうすると言うんだ。と、こういう風に考えがたどるから、最近は写真を撮ることに「冷めている」。冷めているとつまらな、つまらないとやる気がしない。やばい。やばさからの脱却には、別の場所に行く、別の時間に撮る、カメラ機材を変える、などの刺激を・・・。しかし、それって上の理屈から言えば、ありふれている状況からの脱却であり、本末転倒で「ずる」かもしれない。
 とかなんとか、歩きながらそんなこといちいち考えてないですよ。こうしてパソコンの前で撮ってきた写真を眺めていて、気に入る写真がないから、屁理屈としてそんな分析をしているってことで。しょうもない。

 上の写真は、そんな中からやっとこさっとこ少しはいいかも、と選んだ写真でして。真ん中にある赤い進入禁止標識や、それと呼応するような同じ赤の服や赤の信号や、不動産会社の窓あたりの水色の感じ、794は「なくようぐいす平安遷都」ってこれは関係ないか。右の人の服のオレンジも、これが黒とか白とかでないからいいかもしれない、とか。それでこれがそこいらにある交差点であって、だからこそ、もしかしたらスルメのようにこんな種類の写真の方が時を経たあとに懐かしさみたいなことを感じるかもしれない要素があるのかも。そんなわけないか・・・。まぁ、ぱっとしないですね、やっぱり。
 一方で下の電球の写真のようなのはどうなんだろう?左の紫はきれいで。しかしこれはスルメにはならないかも。何が写ってるのかしらと考えた1秒のいのち、なんだ電球なのね、で興味喪失。じゃあ、今度は上の写真から色を抜いたらどうなの?コントラスト上げて、すこしんぼかしを入れてみましたが。そうしてみたものの、色の配置が消えたらなんだか(私には)全然面白くない。

 今朝、今日は半夏生です、と天気予報士が言っていました。