光る自転車


 夜、自転車に乗っているとき、以前はタイヤの回転を使って発電機を回すダイナモ装置から生まれる電流で豆電球を点灯させて前方の道路を薄明るく、かろうじて照らしながら走っていた。私が茅ヶ崎のカスタムメードちゃり屋さんのサイクルボーイで格安で自転車を作ってもらった、もう十年か、いや、十五年か、すごく前のことだけど、その自転車にもダイナモ発電機が付いていて、砲弾型のライトは速度が出ているときには明るく、遅いときには暗い光を灯す。
 もしいま新しいママチャリを買うとしたら、もうダイナモタイプよりもLEDランプによるより明るく、電池がすごーく長持ちするライトの方が標準装備されているのかな?
 サイクルボーイで作った茅ヶ崎で使っている自転車ではなくて、平日にしょっちゅう北関東の某市に行っているときに使っている、こっちは十年前に買ったママチャリにもダイナモが付いているが、昨年配線が切れて明かりがつかなくなったときに自転車用LED前照灯を使うようになった。その後、サドルの表面が切れて、中のスポンジが雨の日に水を吸い込んで、その後、雨が止もうが晴れようが、一度吸い込んだ水分はかわかなくて、自転車に乗るたびにまるで「おもらし」したみたいにずぼんが濡れてしまうから、サドルを買い替えた、そのときにちゃり屋さんで一緒に切れた配線を直してもらった。
 数日前のまだ明るくなる前の早朝、北関東でその朝はマイナス1℃だったその朝に、寒い寒いとつぶやきながら、ニット帽で完全に耳を覆い、ぐるぐる巻きのマフラーで顎を隠して自転車をこいでいた。そのときLEDライトの方は点滅モードにしていて、いつもはそんな風にLEDとダイナモを併用したりはしないのだが、ダイナモの方も使ってみた。
 そうして自転車を漕いでいたら、小学生のころにいわゆる「子供用の」自転車から、もうちょっと大きな自転車を買ってもらったとき、それは中学生1年くらいのときで当然変速ギアが5段はあってダイナモも付いていて、セミドロップハンドルなんて呼ばれていたハンドルを付けていた。そのときに、私は、その自転車で夜走るときに、自転車をたくさんぴかぴかさせて走らせたいと思った。なんでそんなことを思ったのか、なにか「見本」があったのか、わからない。でも世の中ではトラック野郎の人たちが自分のトラックをキラキラに光らせる改造をしてみせることが、いまはないのか?以前はそういうのが大流行したこともあったから、なにかそれと共通の気持ちがあったというか、そういう気持ちを持つことは世の中一般で「よくある」のかな。中学生のそのころには「直列つなぎ」と「並列つなぎ」で豆電球が光ることは知っていた。近くの模型店では豆電球や電線やスイッチを売っていたから、そこでそういう材料を買ってくれば念願の光りまくっている自転車が出来ると考えていた。
 実際には妄想していただけで実践まではしなかったけれど、よく紙に自転車の絵を描いて、そこにぴかぴか自転車の「設計図」を描いていた。
 ということを自転車を、寒い寒いと言って漕ぎながら思い出した。いまだったらこんな風にダイナモと点滅するLEDで「少し」ぴかぴかしている。もしいまもぴかぴか自転車を作りたかったら、たくさんのLEDライトを買ってきて、自転車フレームのあちこちに付けて、五つも六つも付けて、それを点滅モードにして走れば、中学生のときに妄想したような自転車は容易に実現できるというものだな。
 それにしても、くりかえすけど、なんでそんなにぴかぴかさせたかったのだろうか。

 家族のSは小学生のころに夕焼けを見るのが好きで、ある日、夕焼けがきれいなのはちょうど6時半だったからそれを覚えて、毎日同じ時間になると空を見ればよいと思ったのだが、もちろん夕焼けの時間は季節とともに変わっていく。Sはそれではじめて、頭の中では知っていたとはいえ、自分自身で日が長くなったり短くなったりしていることを「体感」して、知っていたことなのにすごく驚いた。という話をなにかをきっかけで思い出したらしくて、数日前にそれを聞いた。

 保坂和志著「小説、世界の奏でる音楽」を、ゆるゆると読み進めている。ちょっと飽きたりすると平行して読んでいる他の本も読んでいる。
 これは小説に関する本だが、小説を写真に、小説家を写真家に置き換えて読んでも腑に落ちるところがたくさんある気がする。例えばP355「小説を書いたり読んだりすることがネタ=題材を書いたり読んだりすることだと思っている人がたくさんいて、その人たちに「小説はネタではない」ということは理解されない。というそこまでは自分と関係ないことで済むのだが、ネタ小説観にある「書くことは小説家という主体がネタという対象に託して何かを表現することだ」という、書き手と小説の関係についてまでは、ネタ小説観を持っていない人でもそこから完全に自由なイメージを持つことは不可能と言っていい。小説は特定の誰か一人の小説家が書く。それは否定しようがないし、そこに<小説家=書くという行為の主体>という考えが入り込む。しかし、あれも書けるしこれも書けるが今回はとりあえずこれを題材にしようという、題材に対して主体的な選択をするネタ小説観に立たない小説家にとって、書くという行為の主体性・能動性はないと考える方が正しい」のところを
「写真を撮ったり見たりすることがネタ=題材を撮ったり見たりすることだと思っている人がたくさんいて、その人たちに「写真はネタではない」ということは理解されない。というそこまでは自分と関係ないことで済むのだが、ネタ写真観にある「写すことは写真家という主体がネタという対象に託して何かを表現することだ」という、写真家と写真の関係についてまではネタ写真観を持っていない人でもそこから完全に自由なイメージを持つことは不可能と言っていい。写真は特定の誰か一人の写真家が撮る。それは否定しようがないし、そこに<写真家=撮るという行為の主体>という考えが入り込む。しかし、あれも撮れるしこれも撮れるが今回はとりあえずこれを題材にしようという、題材に対して主体的な選択をするネタ写真観に立たない写真家にとって、撮るという行為の主体性・能動性はないと考える方が正しい」
と置き換えてもなんだかすごくすんなりと理解できないか?
 石川直樹がTV「写真家たちの日本紀行」で、祭りを撮るときに、事前に計画した通りの決定的瞬間を撮るためにしゃしゃり出てその計画を実行するようなことを嫌っていて、偶然を受け入れるためにそんなことはしない、それでも写ったことが写真だ、といったような意味のことを言っていた。題材に対して主体的な選択をするネタ写真観に立たない写真家にとって、撮るという行為の主体性・能動性はない、という行為を石川直樹は実践しているのかもしれないと思った。
 森山大道が「新宿」「大阪」「ハワイ」「ブエノスアイレス」などを撮っていて、それぞれの都市を限定しているのだから彼にとってはそれは「ネタ」だろうと考えてしまいそうだが、そうではなくてそれは撮影範囲をたまたまくくって整理をしているだけで、その都市の中でやっていることは受け身に立った記録係なのだろう。
 しかし主体性・能動性をなくすということは人間である限り本当は不可能でもあって、監視カメラが撮り続けた映像を無作為に取り出すとかしない限り・・・うーん、それだってある意図をもってそこに設置した写真家の主体性がある。
 音楽でも小説でも絵でもないところ(白いまだ音符が書かれていない五線譜や字が書かれていない原稿用紙やまだ白いキャンパス)から生み出すものだが、写真はある光景から切り出す、という決定的違いが、そもそもの立ち位置として完全な主体性の排除を困難にしているのか。

 まあ、こんなこと書いていても、読んでくださる方はいるのかな??