ニセアカシア会議


 一昨日、会社の帰りに毎日持ち歩くコンデジを買い替えた。3年くらい使っていたPowerShotS90からその三世代後のS110にした。だから今日は新しいカメラを初めて使ってみました。高感度のS/Nが相当良くなっているそうなのでいままではISOは80基本に、暗さを読みながら最高でも500くらいまで、なるべく200以下で使うことにしていたが、こんどはISO1250を上限設定にしたISO AUTOにして、しかもプログラム線図もなるべく手振れが起きないようにISO感度の上がり方が早めになるように設定してみた。手振れ補正能力も進化している、等々で、ノーファインダーで街行く人たちを撮って行ったときに、前のカメラではしょっちゅう発生していた手振れはほとんど無し。電車の窓から車窓風景を撮るときのAF動作時間も含めたシャッタータイムラグも相当短くなっていて、進化を実感しました。2003年くらいに初めてコンデジを買ってから十年のあいだで四機種目の更新だったが、更新するたびにその進化にびっくりさせられる。
 ところで街撮りスナップでは、人の配置の妙が起きる偶然を期待しながら写真を撮ってみるが、なかなかいい感じの配置にならないものです。頭の片隅にいつもお手本として浮かんでいる木村伊兵衛の本郷森川町をはじめとする数々の好きな写真には遠く及ばないなあ。

 今日は新宿三丁目のビルの三階の下着ショップの一つ上階にあるギャラリーで27日まで開催している須田塾仲間の関くんの写真展「ハンミョウ」を見に行く。端正な白黒展示写真と、ニセアカシア発行所松本さんデザインのカラー写真によるzineの両方が見られる。カラーの持っている街中のちょっと奇妙な片隅を取り集め採集したような写真の”微妙な”異様さは白黒写真では表から消えているように思えるが、その潜伏しているものが、それでも表に出ている像になにか影響を与えているのだろうか?そこを読み取れるかが試されているような面白さ。

 神田珈琲園でニセアカシア4に向けて同人四人が集合し、途中場所を神田三州屋に変えて、結局6時間くらいぶっつつけに写真の話をし続けた。作為的なことがゼロの写真を得る手段や方法はありうるのか?写真の読み取り方を誘導するためのやらせや修正とは是か非かというレベルではなくてもっと行為として見たときに当然のことなのか?未来に撮影することを予約設定した写真をそれを企画した本人が見ないまま誰かが見て写真としてあるときそれは撮影者の意図の産物か?などなど激論続く。なんちゅうかいずれもありふれた写真論的課題であって、すでに多くの先達がそれぞれの結論を持っている(あるいは多くの選択肢から自分に合った結論を一応決めて納得することにしている)ようなことであるのだろうが、こういうことを話している時間は至福であります。私にとって。

 たとえばオリンピックの体操競技の難度Dのクライマックスの瞬間をいままで見たこともない角度から最新技術に裏打ちされた高速シャッターとピント精度と高画質でとらえた決定的瞬間の写真があって、それは生まれたときから決定的瞬間を撮ったものであるというぴかぴかの称号が与えられるが、もしかしたらさらなるD難度の登場やさらなる技術の進化から「最も」決定的な瞬間をとらえた写真としての地位を返上するときが来るかもしれない。すなわち撮られたときがピークとなる決定的瞬間だとしよう。いっぽう、五十年前に撮られた、撮ったそのときはまったくありふれた街角写真や家族写真や記念写真だったとしても、その後の時代のなかで街並みや建物や人々の服装や歩き方や姿勢や、バッグや、スカーフや帽子の種類、髪型、等々の変化が起きる中で、すでに五十年前のありふれたことはすべて「いまはもうない」「いまはほとんどない」ことが写っていることに変容していった。こういう写真は、時代の変化の中で映像がどんどん「決定的瞬間」(のようなところ)へと「昇格」していくことではないのかな。あるいは、言い方を変えると「絶滅して二度と現れない幻の瞬間」ってこと。だから、そういうふうにあまりにその当時はありふれていた、撮られたそのときにはもしかしたら「つまらない」とされた写真が時間の中でどんどん価値を上昇させていき、ついに写真の価値の地位をぐっと上げてくる。こういう後者のような写真を、未来を予測しつついま未来の価値を認識しつつ撮りためるということが、いますぐ決定的瞬間を撮るという当たり前でわかりやすい写真行為よりも偏屈で天邪鬼だけど、でもそうありたい。
 とかまず思うでしょ。でも次に、そういう写真を意識して撮りためるという行為自体が、そういうことを意識しないで撮られる家族写真に勝てるわけがないのではないか?とかまた考え始めるわけで・・・
 最近、四十年〜五十年前に父が撮ったネガをスキャンしながら、あまりにそれらの写真が面白くて、でもそれは私がその家族だからかもしれなくて、だからニセアカシアメンバーに見てもらった。するとメンバー各位も皆それらのカビの生えた写真をそれなりに面白く感じてくれている様子だった。それでその理由を考えてみたわけです。