駒ヶ岳ケーブルカー


 ネガにはカビがはえてしまっているが、実家の二階の押入れの奥に積んであるアルバムに貼られたモノクロプリントはあまり痛んでいなかった。この写真はアルバムに貼ってあった写真を接写したもの。1960年の春に父は勤めていた総合病院のバスツアーで伊豆箱根に旅行したようだ。一泊だったのか日帰りだったのか?そこまではわからない。箱根駒ヶ岳ロープウェイは1957年に開通して2005年には廃止になっているそうだ。この写真は1960年に撮られていて、面白いのは、前にも同じようなことを書いたけれど、このころ、おじさんたちは旅行にもスーツにネクタイという姿で行っているということで、このすれ違いのケーブルカーの最前列をよく見ると、ネクタイを締めたおじさんが楽しそうに座っているのが写っている。

 私が高校2年のときに夏休みの写真部の日帰り撮影イベントで同じケーブルカーに乗ったことがあったと思う。1973年かな。だからその時のネガには同じケーブルカーが写っているのかもしれないが、これまた整理が悪くて、そんなネガがどこかに残っているかどうか?あそこにありそうだな、というアテすらない。

 ケーブルカーは鋼索電車というのが日本語であることは、村田喜代子の短編を読んでから知っていた。

 箱根といえば、私が六歳のころに、父方の祖父が金沢から祖母と二人で関東に旅行に来たことがあった。東京で何人かの友人知人と会ったのちに、私の家(平塚市にあった)に何泊かして、そのあと箱根に一泊して帰るという旅程だったようだ。父は両親(私の祖父母)が泊まる箱根の旅館を決めるために、私を連れてわざわざ休日に箱根まで出かけて行き、旅館を下見てから予約をした。祖父母や親せきはみな北陸の金沢に住んでいたから、祖父母のための旅程を組むのは父にとっては重要なことだったのだろう。
 私が覚えているのは、無事に宿を予約した帰り道、小田原まで降りるバスが右に左にカーブを曲がりながら軽快に走っていたその車窓の風景のことだった。そのバスにはほかの客は少なく(もしくはほかに客はなく)、父もあまりしゃべらず、私の(記憶に残っている)気持ちは、なぜだかちょっとさびしい感じなのだ。
 祖父はこの関東旅行のあと、半年もしないうちに心臓発作で亡くなった。そのせいで、死ぬことがわかって最後に関東を回ったのだ、と言っている人もいた。

 遠くに住んでいたうえに早くに亡くなったせいで、母方の祖父と比べると、父方の祖父との交流の想い出は少ない。ただ、この旅行で私の家に泊まった夜に、祖父が太平洋戦争に従軍し、どこか南方の戦線で国で野営した夜のことを話してくれたことを覚えている。鰐が川で泳ぐ音が聞こえたとか、南十字星が見えた、といった話ではなかったか。
 祖父は右手も左手も自在に使える人で、両手に箸を持って、それぞれの箸で別のおかずを同時につかんで口に入れるということが出来た。もちろん、そんなことは、子供が「やってみて!やってみて!」と頼んだときだけに見せてくれた、いわゆる一発芸みたいなことだ。

 うーん、古い写真を見ると、思い出話ばかりになってしまいました。