快晴の日曜日に、あるいは、ロックの分類


 世田谷文学館にて「没後80年 宮沢賢治・詩と絵の宇宙―雨ニモマケズの心」を見学。没後に発見されたという雨ニモマケズの詩が書かれている手帳が展示されている。小さな黒い表紙の手帳。最近のスマホくらいの大きさ。展示は、童話の「あらすじ」と、どの童話を絵本にする等の機会にいろいろな画家やイラストレーターが描いた場面の絵の展示が大半で、あらすじを読んでは様々なタッチの絵を見ていると、次から次に紙芝居を見せられたような気がしてきた。

 芦花公園駅から明大前と下北沢を経由して代々木八幡まで行き、そこから歩いて、女性向け雑誌Hanakoの6/13号「東京カフェ2013」に掲載されていたFUGLEN TOKYOという店に行ってみた。ミーハー的行動でありますが、珈琲も一緒に注文したハムチーズサンドもとても美味しかった。サンドイッチの若干酸味のある味は、パンから来ていたのか挟まったなにかから来ていたのか?その酸味の要因を詳しく把握しようなどという意思はまったく起きない、料理には無関心の私ですが、むしゃむしゃと食べながらひたすらに美味しいなあと思っていた。
 そこから代々木公園まで歩いてすぐ。真夏の快晴の真昼の代々木公園は、大勢の人が休日を過ごしに来ていて、いつも通り、私はと言えば写真を撮りながら、写真なんか撮らないでもっと彼らのように優雅に休日の時間を過ごしたいものだ、という自己嫌悪的感情に捕われるのだった。しかし、まあ、そんな風に見える彼らだってそうそう皆が「優雅」ではないに違いないのだ。ちょうど読んでいた「マイ・ネイム・イズ・メモリー」という文庫本が、あとちょっとで読み終わるクライマックスだったから、ベンチが空いていたら座って読もうと思っていたが、日蔭のベンチは一つも確保できず(目の前で奪われたこと数回)、結局せっかくの公園なのに一度も座ることもないまま園内をぐるぐると歩き回ってから原宿駅へ。ところでその「マイ・ネイム・イズ・メモリー」は恋愛ファンタジー小説で、甘い甘い小説で、なにしろ輪廻転生を繰り返しつつ一人の女性の魂を愛し続ける前世の記憶が消えない男の話なのだ。当然、それを邪魔する輪廻転生しても記憶が消えない別の魂も出てくる。そして、何がびっくりしたかと言えば、最後のページまで読んで来て、最後に「つづく」と書かれていたことであった。ケーキを立て続けにいくつも食べられないように、ちょっとなあ、続編が出ても読まないかもしれないなあ。ハーレクイーンロマンスというのが一時期流行になっていたけれど、いやはやずいぶん前のことですよ、そういう類の本なのか。

 原宿から新宿経由で御茶ノ水駅。今日の昼は神田神保町もしくは御茶ノ水あたりでカレーを食べようと思っていたので、このあたりに詳しいであろう余白やさんにメールでおススメカレー店を問い合わせる。すぐに返事をいただき、候補に挙げていただいた中からジョニーという食券を買って細長い店の急な階段を上がり、ずらりと並んだカウンター席が並ぶ小さな店に入る。一人行動の男性向け(でも一人行動の女性客もいたけど)の素っ気ないが実は美味しい店。ずっとビートルズが流れていた。

 そのあと神田珈琲園でニセアカシアのメンバーと合流。9月に参加するTOKYO ART BOOK FAIR 2013についての相談など。

 さて以下はロックの分類に関する話です。(会社の行き帰りの通勤バスの中でスマホのメモに書いたもの)

 70年代後半から80年代前半の、私にとってのハイティーンから二十代前半にあたった頃に、あるいは「頃だけ」に過ぎなかった訳だが、毎月ロックやジャズの音楽雑誌を買ったり立ち読みしたり、テレビではベストヒットU.S.A.を見たり、そのうちにMTVのような番組も始まり、嗜好は偏っていたものの、一応は同時代でその手の流行り唄を聞いていた。そのうちに結婚したり、子供が産まれたりしているうちに同時代の流行り唄で聞こえていたのは、せいぜい(CDショップの分類で言えば)「日本のロック」「ニューミュージック」「歌謡曲」ってところだけになった。本当に子育てに追われるようなときには、そういう積極的にならずともどこかから聞こえて来る流行歌も聞こえなかったようで、最近増えたように思える「懐かしの90年代ヒット××編」といった歌番組から断片が流される曲を聞いても知らない歌が沢山あるようだ。そんな風だったから、同時代で少しは深くロックやジャズを聞いていたのはほんの七、八年の間に過ぎなかったのに、その後に出てきたロックバンドに夢中になっている自分より少し若い連中を知って、訳もなくバカにしたような顔をして、自分が夢中になっていたバンドやらこそがホンモノなのだと力説せずとも呟いては、呆れられたりしていたに違いない。
さてロックの分類名称の話であります。上記のよう七年か八年の間に雑誌などの記事で使われていたロックの分類名称を、大分類か中分類か小分類かは無関係に思い出すままに書き連ねると、ブリティッシュロック、アメリカンロック、サザンロック、ウエストコーストロック、ハードロック、プログレッシブロックジャズロック、カントリーロック、フォークロック、ブラスロック、アダルトオリエンティッドロック、パンクロック、メタルロック、など。上記のサザンロックか、あるいはカントリーロックの中には、レッドネックロックなんて分類名もあつた。最初に分類ありきではないので、一つ一つのロックバンドの特徴をなるべく事細かにわかるように分類名称を付けると微に入り細に入りで、突き詰めるとバンドの数だけ分類ありきみたいになってしまい、本末転倒で、分類の意味するところがわからない。でも、あまりに大分類だと、これまた、分類の意味するところがわからない。
分類をして何かを説明することは、もちろんのこと便利というか理解を促進できる。分類することは、もっと広義には名前をつけることに近い。名前があることで何かを明確に認識できるから、そのことで抽象が具体化し、たとえば、その名前で定義されたコトやモノを認識したり、管理したり、変更したりできる。あるいは、変容や発展を目指したり、目標を設定出来たりもする。でもあるコトやモノにスポットをあてて名付けたせいでそこから、漏れたコトやモノはますます見えなくなる。これは、当たり前の一般論ですね、多分。
少し話が脱線したけど、私が同時代でロックを聞いていた頃、上述したロックの分類の、それぞれの意味するところは、誰に習ったわけでもないが、もしかしたら誤解があったものもあるかもしれないうえで、みんななんとなく判っていた。又は、判ったつもりになることが出来ていたから、時には知ったかぶりして友達とロックの話を訳知り顔でしていたに違いない。
そして、そういう七年か八年の後に、ずーっとロックの最前線の状況に疎いまま時間が過ぎて、Amazonなんかで、昔持っていたアルバムのCD再発を買おうかな?とか思いながら、マウスをカチカチしていると、そこにビッグデータの解析みたいなことがあるのか?次にAmazonを開くと新しいバンドのオススメが出てくる。薦められるままに試聴したり、動画サイトでPVやライブ映像を見ているうちに、何枚かCDを買ったりした。それらのバンドがどういう「ロックの系譜」の先にあるのか?まるで判らないままに聞く。そんなことは知らなくても、いいねえ!と思うのがあれば、買ってはみたもののいまいちと感じたりもする。
そういう風に知ったバンドのことを例えばWeb辞書などで調べると、そこにまたまた、知らないロックの分類の言葉が、出ているわ、出ているわ。ちんぷんかんぷんである。
まぁ、オルタナティブロックという単語があることは、なんとなくは知っていましたが。でも定義はよく判らない。
では、エレクトロニカは何?シューゲイザーは?他にも、ポストロック、ラバーズロック、ドリームポップ、スロウコア、などなど。この春先にヘビーローテーションで聞いていたダーティプロジェクターズを調べるとエクスペリメンタル・インディと分類されていた。これはもうロックじゃないのかな?
ということで最近のロックの分類はいくらWeb検索で、お勉強をしても、やっぱり全く判らない。分類は判らないけれど、なかなかにいいね!というバンドは沢山あるみたいです。同時代で聞いている若い連中は、いつの時代も楽しいのだろうな。