25日の火曜日。会津若松まで出張。行きは郡山から磐越西線で会津若松へ、帰りは高速バスで会津若松から郡山へ。21日22日に東北は大雪だった。というニュースを車窓から見た雪景色で思い出したのだが、直近のそんな大雪のせいではなく、この季節はいつもこんな風景なのかもしれない。初めての風景を見ても、これがいつもの風景なのかどうかなんて判らないってことです。
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藤沢のカフェ・パンセ入口のところに置かれている、「余白や」の古本コーナーで購入したミラン・クンデラ著「笑いと忘却の書」をゆるゆると読み進んでいる。
このブログでしょっちゅう、変容し溶解し消えていく「記憶」を写真が補強修正してしまうことの暴力性だったり効果だったりを、ぐちゃぐちゃぐるぐると書いてしまうことがあるのだが、この本には似たようなことが、写真を手掛かりにはしていないけれど、それほどぐちゃぐちゃぐるぐるせずに書いてあるかもしれない。まだ半分しか読んでないから判らないけど。
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夫との十年あまりの暮らしのあと夫を亡くした未亡人タミナは、亡命してきた経緯があって、夫との思い出を補強修正してくれる手紙や手帳(日記?)や写真を逃げてきた国に置いてきてしまって持っていない。未亡人は、夫と過ごしたはずの十数回のヴァカンスやニューイヤーや、夫が付けたたくさんの自分の呼び名を、あまりにも思い出せないことに愕然としている。
『もちろん、その手帳のなかにはかなり不愉快なことや、不満、口論、さらには倦怠の日々のことさえ書いてあるのはわかっていた。しかし、そんなことは少しも問題にならなかった。彼女は過去に詩を返そうとしていたのではない。失われた体を返してやりたいと欲していたのだ。彼女を衝き動かしていたのは、美の願望ではなく、生の願望だったのである。
というのも、タミナは筏に乗って漂流しているのであり、うしろのほうを、ただうしろのほうだけを見ているのだからだ。彼女の存在の送料は彼女がそこに、自分のはるかうしろに見えるものでしかない。過去が縮まり、崩れ、溶けてゆくのと同じように、タミナもまた小さくなり、自分の輪郭を失ってゆくのである。
手帳のなかに構成しておいたままの出来事という脆い骨格に壁が与えられ、住むことのできる家となるために、彼女は手帳をもっていたかった。なぜなら、もし揺らめいている思い出の建物が、不器用に立てられたテントのように崩れ落ちるなら、タミナにはもうただ現在しか、この見えない地点しか、ゆっくりと死のほうに進んでゆくこと虚無しか残らないことになるのだから。』(単行本のP123)
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- 作者: ミラン・クンデラ,西永良成
- 出版社/メーカー: 集英社
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