写真を見てもらう


 上の写真は3/21伊勢崎で撮ったものです。カバーの被った車というのは、私にとってはかなり惹かれる定番被写体なのだが、その理由まではわからないのです。
 ロバート・フランクの「アメリカ人」にカバーの被った車の写真があっただろうか。それがきっかけとは思えないのだが。

 これは3/22のことです。須田塾仲間だったショータくんとI本さんと神田珈琲園で会い、最近の写真を見せてもらい見てもらう。13時〜16時。
I本さんの持ってきた写真は、近所の夜の散歩で撮った、雑草やブッシュや裸木や梅の木の写真だった。それを、I本さんが長年ずーっと使い続けているデジタルカメラで撮ってある。古いデジカメで撮った夜の写真なので、サービスサイズのプリントでも、画像はノイズに埋もれて解像も最新のカメラの画像よりひどく悪い。その「悪さ加減」がそれらの写真に共通の「味付け」になっている。I本さん自身も「最近のカメラはよく写りすぎる」と言っている。そしてこの草や木の写真が、なにかが「うごめいている」ようで、見たこともない妖怪が潜んでいるようで面白い。
 私は、PCモニターを再接写して、そういう意味ではI本さんの写真同様に解像度と色再現を故意に低下させたような写真30枚と、先日足利と伊勢崎で撮ったスナップ写真をこれはそういう変なことはせずにストレートにプリントしたのを30枚、まぜこぜにして持って行った。
 それでショータ君とI本さんに見てもらって、彼らに選んだり並べたり組んだりしてもらう。すると、たとえば下のような感じで、写真が残った。並びも彼らの試行錯誤の結果である。そして、結局、最後に残った写真はストレートにプリントしたものが一枚も残らずに、「変なこと」をして画像を、高画質から低画質に変換した写真ばかりなのだった。この「偏り」は、ある偏った写真の見方が三人に共通にあるということだろう。そういう見方と嗜好が共通にあるということが須田塾に通っていた結果のことなのか、それともずっと何冊もの写真集やいくつもの写真展を見続けるとそうなってくるのか、そのどちらでもなくて嗜好の共通なメンバーがたまたまこうして集まっているのか。
 少なくとも22日のこの集まりのときに、I本さんと私の写真は「真」(すなわち目で見えたままという定義の「真」)を写せない不自由な条件が生み出したもので、もしかして絵画の要素がある行為の結果かもしれない。などと思ったりした。
 ショータくんの写真には写真から生臭さがにおってくるような伊勢海老の写真があった。いまその写真が目の前になくても、それを思い出したいままた、生臭い。