夜明けを念じる


 このブログの4/27の記事に、湘南モノレール西鎌倉駅から広町の森に散策に行った朝には、鳥の声が聞こえて「(心が)洗われる」って書いた。それが27日の日曜日で、28日の月曜に川崎ラゾーナの書店で山積みになっていた村上春樹の新しい短編集を買った。その本「女のいない男たち」は水曜日から読み始めて、木曜日に読み終えた。収録されている六編のうち「木野」という小説は、村上春樹の小説の「典型」をみごとになぞった王道的作品だった。こういうのは「同じような作品を繰り返し書いていて発展がないじゃないか」と否定的に感じる人もいるし「まさにこれが春樹の小説だ」と、その「らしさ」を歓迎する人もいるだろう。
 何十年も演奏をしてきたストーンズでもマッカートニーでもイーグルスでも拓郎でもサザンでも、「らしさ」や「典型」を確立しているベテランミュージシャンが、いま年を取ってコンサートで演奏したとして、それがやっぱり「らしさ」や「典型」通りであれば、まあ発展がないと否定してもいいけれどそういう人は多分ほとんどいなくて、ヒットパレードの選曲で安心のもとに歓迎するのが楽しいじゃない。
 そういう風に「木野」という小説は、なかなかに楽しく読めた。主人公がいる。彼は、なにか些細なことがきっかけで、それがそんなことにつながって行くとは予想も予定もしてなかったのに、突然に女に去られたり猫が消えたりたりする。そして、いつのまにやら、悪か権力か不穏か謀略か暴力か、そういうものに取り込まれそうになったりする。個人対目に見えない圧倒的暴力にドンキホーテのように挑むというのは冒険小説の典型をなぞっている。だけどその悪か権力化不穏か謀略か暴力は、主人公の弱さがそこに寄り添おうともしている。アフラックのテレビCMの黒スワンのように。その弱さが、この状況に導いてしまったのかもしれない。そういった基本構造が、春樹の小説が、受ける(受けてしまう)理由の一つなのだろう。(なんてね、どうでもいいけど、短絡的で単一視点からの分析だけど)
 小説「木野」の主人公は、そうして追ってきた不穏のような謀略のようなものから、夜中に追い詰めらている。そこで主人公は
『夜明けの訪れを念じた。あたりが次第に明るくなり、カラスや小鳥たちが目を覚まして一日の活動を始めるのを』待っている。『世界中の鳥たちを信じるしかない』と。
 というところを読んで、27日の朝に鳥の声に囲まれた真ん中に立って、心が洗われると感じた、そのことをまた思い出した。
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 ここに載せた写真は5/3の朝に再び訪ねた広町の森で撮ったものです。

女のいない男たち

女のいない男たち