針がとぶ


 何年か前に通販の古書で単行本を買っておいたのに、積読タワーに埋もれたまま読まずにいるうちに文庫化された吉田篤弘著「針がとぶ」を、先日、結局あらたに新刊書店で買った文庫で読んだ。読み終わったときに、かなりいい加減に読み飛ばしてしまった感じ、表面をすーっと滑って、そこに隠された伏線のような物語のあいだの繋がりを読み落としているという感じはあるものの、読み落としているからなにを読み落としたかは当然わからない。それから、小川洋子の書いたこの本の「解説」を読んだら、そこに第一話のおばさんが第×話のだれだれだとか、当然それくらいは気づかないわけないですよね、といった風なことが書いてあって、しかし私はそこに小川洋子が記載した関連性すら気付かずに読み終わっていたことが判明した。すなわち上記の「当然わからない」という平和が、わかってしまって、げっ!やっぱりな、と心乱され平和じゃなくなった。
 そこで、もう一度最初から注意して読み直してみたのだった。それでもたぶん物語の間の関連性の全部のうちの半分くらいが判ったに過ぎないのだろう。
 だけど、結局のところ、そういう関連性はこの本を読んで何かを感じるうえで、関連性に気付いていても気付いていなくても、たいして重要なことではなくて、それはそれが判っていればまあなんというかエンタテイメントの要素が、ごはんに海苔玉ふりかけをかける程度に増すようなことで、たいしたことじゃない。というのが二度目を読み終わった感想。くやしいからいなおっているようなものか。

 文庫の226ページ。写真家の「わたし」は何を撮るのか?と聞かれて「消えてなくなってしまうもの」と答えるのだが、そのあとこう思索する。
『消えてなくなってしまうものなど、本当はどこにもないのかもしれない-突然、そんな思いが頭をよぎった。
 何も消えたりはしなくて、ただ時間だけが雲のようにゆったり流れてゆく。その時間というのも、たぶんひとつの方向に流れているのではなく、だから人は、その行方のわからなさに不安を覚えて、何かをしたくなったり、考え込んだりする。
 きっと、消えてしまうものは、そのときの想いの方なのだ。
 それが惜しくて、わたしはシャッターを切っている。』
 消えてなくなるものは「見ているから」認識されている。それは物体としてそこにあったとしても、わたしが「見る」から私の感じるそれがそこにある。すなわちそこに向けてシャッターを押すという発意が、言い換えると想いが、シャッターを切る原動力になる。ということは、吉田篤弘が小説に書いたことは、その通りのように思える。
 もっと言えば、想いが消えてしまう、あるいは変化してしまう、ということがなにもかもの原動力というか、ベースにあってそれが時間の源とも言えるのではないか。

 上の写真は、どこまでが写真の「範囲」か判るように、枠を付けました。