フイルムカメラで撮る


 久しぶりにフイルムカメラを使う。キヤノン6Lにセレナー35mmF2.8というレンズをつける。先日、藤沢のカメラのキタムラで一本205円で買ったISO200のコダックのフイルムを四本持って行く。初めて行く板橋区立美術館では「種村季弘の目 迷宮の美術家たち」展。西高島平駅から歩き、見終わったあとには、地下鉄赤塚駅に出る。中目黒経由で六本木に行き、WAKOギャラリーでフィオナ・タンの新作短編動画を見る。同時に、金沢21世紀美術館の図録で見ていた「人々の声 東京編」も展示してあったのは嬉しい。図録で見ていたものだが、一枚一枚の写真をじっくりと見る。この展示は
『異なる大陸の五つの国でアマチュアによる家族写真を集め、インスタレーションした作品である。写真に映るのはフィオナ・タンと面識のない人々で、それぞれの土地で各々約300点にのぼる写真が選ばれ、そろいの木製額に縁取られてタブローのように壁に並べられている。(中略)シドニーと東京、あるいはロンドンとノルウェーの間にどれほどの異質性をみてとるかというよりも、等価に扱われた個人史という特定の記録が、関係を持たない現在地点で別の人間に記憶されてしまうというメカニズムを我々に自覚させることのほうが重要な点である。(中略)写真による記録性がオリジナルの概念を解体することを含んでいるとすれば、人間中心に貫かれてきたパースペクティブをひとたび解体してきたとして「コードのないメッセージ」は、人間に再帰することなく、人間のにおいに満ちていた世界をフラットな情報体系として均質化してしまうのである。』黒澤浩美著「フィオナ・タン/エリプシス」の図録に収録された文章より。書き写しながら、いまいちよく同感できないのだが、国や地域を越えて、写真という手法を人がどう使いなにを撮ったかということの「一般性」を感じることはできるのだろう。
 そのあとに東京駅へ移動し、ステーションギャラリーで「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン「遠く」へ行きたい」展を見る。さらに横浜に移動し、トヨダヒトシのスライドショーをまた鑑賞する。今回の作品は「11211」というタイトルだった。
 それをみたあとに大さんばしに行く。ISO200のフイルムカメラではシャッター速度を1秒にしても、当然、露出不足なのだが、それで撮る。手持ちだからぶれる。一方コンパクトデジカメでも撮る。こっちも1秒だが、ストラップを首にさげて突っ張ってブレを防ぎ、連射モードで一シーンを五枚か十枚か撮り、かつ手振れ補正も機能するから、なかにぶれていない写真も残る。この写真はぶれているフイルムの写真とぶれていない(被写体が移動した分はぶれている)コンデジの写真である。フイルムの写真の方がよく見えることもあるかもしれない。ぶれていても、露出不足でも、荒れていても。
 「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン「遠く」へ行きたい」のことは「11211」のことも後日に書くかも。