青木隼人の即興演奏 トヨダヒトシのスライドショー


 昨年だったか、友人のYさんのブログで荻窪だったか西荻窪だったかもはっきり思い出せないのだが、そのどちらかの街にある「雨と休日」ってCDショップのことが紹介されていて、それでその近くに行くなにかの機会があったのでその店に立ち寄ってみたこともあった。記憶が正しければだが、昔懐かしい引き戸の入り口をがらがらと開けて入る小さな店で、そのときには何人もお客さんがいて、ちょっと聴きたいCDも試聴することができなかったのだが、HPで何枚かのCDを聴いた。あるいはそこで扱われていたCDの何枚かは既に持っていたので、そういうことがあると親近感を感じて嬉しくなるものだ。
 そのHPで知って、そのあと一枚だけ購入してみた青木隼人というギタリストが、ここのところ横浜トリエンナーレ連動企画で立て続けに上映会を開催している写真家トヨダヒトシのスライドショーとコラボするというのでこれでここひと月くらいのあいだで四回目となるトヨダさんのスライドショーを見に行ってきた。今日の上映はたぶん元横浜銀行本館だった建物じゃないかな、それを利用した横浜創造センターで午後7時から。スライドショー作品は「The Wind's Path」のタイトルで、フライヤーによれば「手のひらで溶けていった雪。陽のあたるところの美しさ、陽のあたらないところの美しさ。映像日記第三作」とある。7時に青木さんの短い演奏があり、それから一時間強のスライド上映があり、そのあと30分か40分くらいだったろうか、青木さんの即興演奏が(曲数を分割して数えていいのか判らないけれど、そういう感覚で数えると四曲くらいだろうか)あった。
 スライドショーにはほんのまれに文章が入る。『1999年にそれまで何年も住んでいたNYから日本を経て、東南アジアを旅行したトヨダさんは、それでも帰ってくるとまたNYの日常の日々に取り込まれて「先を見出せないような」状況にいた。今日の作品は2000年ころから2001年の早春あたりまでのそういった背景で暮らしていたNYの日々』の作品だった。こんな風に勝手に要約するのもなんだか失礼なことだ。
 庭を見下ろす写真と、庭で出会うちっぽけな虫や花をマクロ撮影した写真が圧倒的に多い。庭には陽がさしたりささなかったり、周りの建物の影が出来たり、雑草が刈られたり穴が掘られたりする。しょっちゅう雨が降る。いや、雨の日の雨粒にストロボを焚いて星のように写った写真と窓に付いた雨粒の写真が何度も出てくるから、しょっちゅう雨が降るのではなく、トヨダさんが選んだ過去の日の選抜結果の、再構築された時間の断片の日々ではしょっちゅう雨が降るってことだろう。ときどき挟まる文章は、状況を説明するが、よくある写真を補強するはずだった文章が、いつのまにか写真が文章を補強する(文章をわかりやすくするために添えられる写真)というような主従逆転に至るような失態とは勿論程遠い。なんでこんなことを書くのかと言えば、作品を眺めているうちに、ふと、このスライドショーは、文章を想起させる力を持った写真だな、と思ったから。そして、こうしてこのブログを書いていて、それってよく言われる『写真から物語(文章)を感じ取れる』と言うことだとすればなんかそれまた言われつくした写真の力を感じました、ってことに過ぎないのだが、見ていたときに起きた感覚は、そういう言われつくされたことの体験とは別な感じで、すなわちはじめての感じだったのだが。そうか、写真から物語を想像させる、というところの力がすごく強くて、その物語に鑑賞者の自由な広がりを(良い意味でですよ)許さないから、まるでトヨダさん自身が書いた文章(散文)をきっちりと読んでいるという感じを持ったってことなのかもしれない。
 先日の野口里佳展の入り口に掲げられた誰かの文章に野口里佳の写真は消えていくものとか見えにくいものを見ようとする、という意味のことが書いてあったが、一方でトヨダヒトシが写真展も写真集ものこさずにスライドショーだけで写真を見せているのは、消えていくこと、見返せないこと、という時間の流れのリアルな再現のような決まりを与えているわけで、そこに瞬間を留めるという特性の写真を使うという裏の裏のような手法を用いるところがすごい(というかなんだかすごく危ないことというか思い切っているな)。いや、こう書いてくるとトヨダヒトシの写真の見せ方が、日記という日常の記録や記憶ということからその時々を再現しようとすると時間が流れていくということに肉薄した過酷さを許容しているのかもしれない。
 スライドショー後の青木隼人の演奏は素晴らしかった。上記のようにスライドショー中にはトヨダヒトシの散文をきっちろと見せられた感じだったのに対し、青木の演奏は、それを再度咀嚼して(というのはその時点でスライドショーの映像はすでに数十分まえとは言え過去だから)、自分自身の記憶に照らして生み出される音だった。そもそも、歌詞のない音楽の持つ抽象性はそういうものだろうけれど。したがって、音を聞いて目を瞑っていると、トヨダのスライドショーからインスパイアされたけれどスライドショーの最中には心の表面に浮かび上がってこなかった私個人の記憶が、今度はスライドショーのように頭の中に映像として浮かんでくるのだった。
 素晴らしい夜でした。

 イベントのあと、すぐに帰り道につく気が起きず、馬車道あたりの路地をうろうろと歩き回る。すると全体に白っぽい服を着た家族連れが楽しそうに通り過ぎるのに出会った。子供たちが楽しそうに弾んで歩く。なんだかやってきた秋の化身に出会ったような気持ちになった。