フイルムカメラの写真 アナログ盤の音楽

9月が終わる頃から、フイルムカメラを使っている。一年か一年半くらいの周期でフイルムカメラを使いたくなり、 そこで半月かひと月かの間に10本ほどのフイルムを使うのだが、それでフイルムへの熱のようなものが去り、またデジカメに戻るのだ。私はこの期間をなんとなく「リハビリ期間」と思っている。だが、今回は、いまのところ14本のフイルムを使い終えてもまだデジカメに戻ろうと言う気持ちにならない。何故にリハビリだと思うのか、自分でも理路整然と説明出来ない。オートマチックではなく、自分の目で光を読んで、露出を決める。ピントもマニュアルだ。写った結果はすぐにわからないから、確認して撮り直すことも出来ない。数打てば当たる作戦で、いろんな露出組合せを撮っておくこともできるが、36枚で一段落という枚数制限もあるし、そんな作戦は現実的でない。こう言うやるべきことの全部か、何かしら、被写体というか、目の前の光景への向き合い方に影響を与えるのだろう。こう書いてくると、フイルムかデジタルか、ということより、マニュアルに戻るこ とをリハビリと思っているってことかもしれない。9月の終わりから、しばらくレンジファインダーのカメラを使っていた。昨日の土曜日からは、もう露出計を動かす水銀電池を買えないし、代替品も買ってないし、多分露出計の回路も壊れていたんじゃないかな?なので露出計が動かないキヤノンF1にFD35mmF2を付けた組み合わせにフイルムを入れ、使っている。このあとはライツミノルタCLも久々に使おうかな、と思う。動体保存された蒸気機関車が久々に本線に引っ張り出されたって感じもなくはない。
 そんなわけでこのブログの写真も10月に入った頃からはずっとフイルムカメラで撮った写真を使っている。フイルムから10年くらい前に手に入れたフイルムスキャナーで読み込んでデータにしている。だから、結局最後ははデジタルデータだ。デジタルデータじゃないとブログにあげられないし。
 写真の画質を評価するためのたくさんの項目があって、それらを数字で比較すると、デジカメで撮った方が半世紀も前のメカメカしいフイルムカメラで苦労して撮ったものより遥かに優れている。それなのにこうして出来上がった写真に感じるいとおしさみたいなことは一体何なのだろう?
Yさんのブログに、久々にCDでなくアナログ盤を聴いてみたということが書いてあった。30年前にCDの音はクリアで素晴らしいとみんなが言っていたが、いまになったらアナログは音がいいと言う人もいる、とYさんは昨今のアナログ回帰といった状況を踏まえた上で「アナログ盤は好きです、音質の良し悪しはともかく、パッケージとか音を出すまでの儀式的なあれこれとかいろいろ含めてのことですが」と結んでいる。オーディオのことは門外漢たが、それゆえに乱暴なことを書くことになるのだろうが、音盤にはどれだけ広い周波数帯域に亘って、どれだけ忠実に、音の波形が、ノイズにも埋もれずに記録出来ているかが求められ、その忠実性が高いことがクリアであることの数値的な保障になっているのだろう。音の周波数を写真に置き換えて考えると被写体の空間周波数ってことになる、かな。
CDは、この周波数帯域の高い側を人間の可聴域に合わせて、人に聴こえないところは関係ないでしょと、ある周波数から上を無視していて、実はその領域の音、というか、波は、聴覚には捉えられなくても人間と言うセンサーの集合体としては何らか受信が可能である(本当かな?)から、そこの波長域がないことか、音楽を聴き込むときに鑑賞者の心が感応するうちの情緒的なところに寄与出来ない。一方で、精度はともかくこの高域も一応は制限なく記録されているアナログの方が音楽を聴いてクリアだとか場の再現ができた、と言った記録的なあるいは数値的な評価軸ではなくて、聴いている人の心の中にどういう想いやら気持ちやらを起こさせたか、という評価軸でみたら、アナログの方が「音がいい」と、こうなるんだよ、なんてことも聞いたことがある。本当か嘘かはわからないけど。これに対する反論も聞いたか読んだかした気もするが。
写真ではどうなのか?このアナログ盤にあると言われる可聴域以上の高い側といった説得力のある項目があるのだろうか?
写真の場合、現実に忠実に再現出来ない画像の劣化具合それ自体に情緒的な評価軸での重要性が秘められているのかもしれない。アルバムに貼られた数十年前のカラー写真の変色の度合いとか、トイカメラで撮った写真のあやふやな低解像や、収差やゴーストの作り出す現実にはない写真の中にのみ生まれたものが。あるいは深度外に発生するボケは実際の目の前の光景ではちゃんと見えているところを、その通りではなくぼかして写すということをよしとした上で論じているのだから、忠実に再現することを評価軸とした立ち位置からすでに外れている。
アナログ盤の良さが、可聴域外の高周波数の存在にあるのならこれはリアルという点でアナログがCDに勝っているところが残っていたということで、同じ土俵で勝てるところがあった、ということになる。写真に写った現実の光景を真に出来ずに劣化したところか情緒が発生する一因だとすると、アナログ盤とフイルムカメラという、ともにデジタルに取って変わられたものでも、そして、その両方がときにデジタルよりも「いい」と言われることがあっても、その理由は違っていて、一方は再現精度で勝てるところがあった(高い周波数帯域まで記録されている)のに対して一方は「劣化」言い方を変えると「リアルからの逸脱」が理由なのかもしれない。
こう書いてきたけれど、写真と同様音楽だって、そういうところに「いい」を感じることもあって、むかしのSPレコードのような多分ひどく周波数帯域が歪んだ結果なのだろう音質や、あるいは聞き込むほどに増えていった小さなたくさんのスクラッチノイズや、何かの拍子に付いてしまった大きなスクラッチノイズが、すなわちやっぱり劣化具合が、特に後者のスクラッチノイズに関してはとっても個人的な思い出に直結するセンタメンタルな記憶をまとって、情緒的な方の評価軸では関与するのだろう。
どうやら音楽で言えば場の忠実な再現を、写真で言えば、まさに真を記録したかどうかを評価するというそれはそれで重要な評価とは別に、聴く人や見る人の心に響く場を再現できないところ、写しきれなかったところの、もどかしさの部分に、心地よいもどかしさがあるのかも。
私のような50代後半の年齢になると、もしかしたら、科学的な評価軸を感応する、言い方を変えると高い周波数帯域を聞き分けたり見分けたりする聴力や視力がなくなるのとともに、そこの差へのこだわりもなくなり、そっちがどうでもよくなり、結果としてアナログレコードやらフイルムカメラやらに情緒を、求めて回帰というか退散(て感じ)してるのかもしれませんな。
ところで、Yさんの書いている「音を出すまでの儀式的なあれこれ」は写真で言えば撮るときには「シャッターを押すまでの儀式的なあれこれ」となり、見るときにも「スライド投影するまでの儀式的なあれこれ」となり、これはこれでまた考えさせられるネタですな。秋の夜長に。儀式を経ないと撮ることが出来ない、すなわち、決定的な一瞬の瞬間はなかなか撮れないということが、何をもたらし何を捨てているのか、とかね。