情緒とは


 19日のこのブログに「情緒」って単語をなんとなく使ってしまったが、情緒ってどういうことなのだろう?とか、考えながら本屋に立ち寄った。それを調べたくて本を探したというわけではなくて、ただ、いつもの通りに文庫本のコーナーに行き、いつもの通りに表紙を表にして飾られた「新刊」の文庫本を眺めていたらその中に岡潔著「夜雨の声」(角川ソフィア文庫)というのがある。手に取りぱらぱらとページをめくった。目次を見ると最初に収録された随筆のタイトルが「情緒」だったので驚いた。その随筆を繰り返しで二回続けて読んだのだが、すっきりとは判らない。いや、むしろ、ほとんど判らない感じがする。でもほんの少しだが、判る気もする。
『私たちが緑陰を見ているとき、私たちはめいめいそこに一つの自分の情緒を見ているのです。せせらぎを見ているときも、「爪を立てたような春の月」を見ているときも、みなそうなのです。だから他のこころがわかるためにも、自分のこころがわかるためにも、「情緒」がよくわかると非常によいのである。ではそれにはどうすればよいだろうか。』このあと連句のはなしになっていく。連句は情緒が判っている他と自分が、情緒がわかるがゆえに掛け合える。そのためには国語や歴史といった知識だけではなくさらにもっと本質を体感した経験を共通に持っていることが前提で、それではじめて自分のこころと他人のこころが情緒的に響きあえる、ということが書かれているのだろうか?(『』は引用です)
 フイルムカメラで撮られた写真や、アナログ盤の音楽は、それを見たり聴いたりしているときに個人のこころに働きかけ、たとえばなにかの個人の記憶を掘り起こす力があるとすれば、それは情緒的な力だというような岡潔の解釈は、短絡なのかな。