赤瀬川原平さんの訃報


 町田市文学館で尾辻克彦×赤瀬川原平展を開催していることは知らずにいたのだが、千葉市美術館の赤瀬川原平展は楽しみに待っているところだった。月曜の朝刊で赤瀬川原平さんの訃報に接して、このときに、即ちご本人の回顧展がいよいよ数日後に始まるという日に亡くなるということも、何か赤瀬川原平の、おかしみ、たのしみ、かなしみ、の飄々として粋な表現を仕掛けられたようだ、なんて感じるのは大変に失礼なことなのだろうか。ご冥福をお祈り申し上げます。

私の本棚に90年代に赤瀬川原平を特集した号のGQと太陽が、本棚の最前面の取りやすいところにある。90年代には尾辻克彦もしくは赤瀬川原平の本をずいぶん読んだものだ。古書でしか手に入らない本もたくさんあって、時間のあるときに古書店を見掛けると立ち寄って、著書を探した。GQにはその時点の著書リストが載っていたので何度もページを捲っていた。その後、その頃集めた本の何冊かは売ってしまった。今日、本棚を見ると「父が消えた」の単行本が最前面にあった。父が消えたと書いた赤瀬川さんも消えてしまった。この本に収録されている「お湯の音」という風呂屋の出前の話は特に大好きだ。赤瀬川原平というか尾辻克彦の、気持ちや気分の描写は平易な単語や文章を使いながら、身に沁みてわかる。読者をあてにしている。読者の読解力を前提にして預けて下さる。だから、余計な説明的なことにもならず、力んで硬く大仰な単語もなく、スッとわかる。面と向かって顔色から心持ちを図って会話を楽しむようなことを、不特定多数に向けた小説やエッセイで出来てしまう。どのエッセイだったか忘れたが、夏に市民プールに向かって歩いていくところの描写で、プールに近付くと遊ぶ声が漏れ聞こえてきて気持ちが逸る場面、魅了されたものだった。書かれていない夏の日常を構成する当たり前のあれこれが思い浮かんだ。「お湯の音」の胡桃子の気持ちも、気持ちのドキドキも手に取るようにわかるだろう。
本棚の単行本が並べてあるところ、最前面の本をどかして、奥の本を見ると、他に「肌ざわり」「出口」など四冊くらいの本があった。文庫本の本棚の最前面をどかしたら、ずらりと15冊ほどの赤瀬川原平もしくは尾辻克彦の本が並んでいる。著者が亡くなろうがお元気だろうが、私の持っている本は同じように私の本棚の奥に、こうして並んでいてなにも変わらずにあった。