昼休みに


何か流行りの「テイスト」なるものをデザインに取り入れた、建物やらその他の街を作るもの、そこを歩いている人たちの着ているものも含まれるかもしれない、そんな場所へ行ってあちこちパチリパチリと写真を撮れば、なんだかお洒落なものが写ってくれるかもしれない。
もう15年か20年か前に、会社の写真部に所属していた。秋に開かれる文化祭では一人辺り畳一畳くらいの広さが割り当てられる、穴空きの可動ボードを使って、写真を飾っていた。文化祭以外には大学ノートを使った写真部ノートと言うのを回覧していた。見開きの左ページに自分の写真を貼りちょっとした解説やデータやタイトルを書き添える。他の人が写真を貼ったところの見開きにはその右ページに、左ページに貼られた他の人の写真に関する感想や意見や、そこから思い出したあれこれを書いておく。いまならネットに写真を挙げて、コメントを書き込むってことなのだろうが、これだけのことでも数ヵ月に一度ノートが自分のところに回ってくるまで、自分の写真にみんながどんな感想を書いてくれたのか読めないわけで、だからと言ってイライラと待ってる訳でもなく、忘れた頃に回って来て、それが楽しいと言ったのんびりしたものだった。最盛期には二十人かもっと、写真部ノートの回覧に参加していた。そんな頃に写真部仲間だったHさんは、冒頭に書いたような最新流行のお洒落な街に行かずとも、その辺りの公園や見慣れた街角や、自宅ででも、お洒落な写真を撮って来る達人でみんなから一目置かれていた。お洒落、なんて書いても、それって何?ってことになるが、柔らかい光のうつろいが、被写体とHさんの間の空間に漂っているような。ローライフレックスプラナー付きや、ライカを使って、モノクロて撮る。寡作で、撮る前に一度冷静に視点を撮ろうと思ったところから遠ざけ、一息付いてあらためて見直し、やっと撮る。そんな風なことを思わせる写真だった。
その後、写真部の活動は下火になり、というより、私として「お題は花鳥風月で」とか言い出す若い方たちの趣味と自分の興味が合わなくなったから辞めてしまったのだ。多分Hさんも同じ頃に写真部を辞めたようだ。言い忘れたがHさんと私は同じ歳だから、あと2年くらいで定年だ。
そのHさんに、ときどき、年にせいぜい二回か三回か、会社のエレベーターで会ったりする。そんなときには、無言で会釈だけしたり、たまには「撮ってる?」と聞いては、どちらが聞く方でもどちらが答える方でもたいして変わりなく「まぁ、ぼちぼち」と答えるのだった。
今日、火曜日、会社の昼休みに食堂で、栄養士イチオシの「鳥からあげオーロラソース野菜添え」を食べたあとに、たまには川沿いを散歩しようかなと西門の方へ歩いて行くと、十メートルほど先にHさんが見えた。Hさんは私に気が付くとわざわざ立ち止まって待っている。何か具体的な用事でもあるんだろうか?
近くに行くと、Hさんが、
赤瀬川原平が死んじゃって、結構ショックなんだよね」と切り出した。私が「あ、私も」と答えると、Hさんは「そうじゃないかと思ってたんだ」と言った。
Hさんのショックは、こうこうだったから輪をかけてショック、という面があった。こうこう、のところの一つ目は、町田市文学館で始まったばかりの尾辻克彦×赤瀬川原平展に初日に行ったばかりで、そのときにはもしかしたら赤瀬川さんご本人が、初日だし、来るのではないかという思いもあったそうだ。二つ目は、たまたま先週、会社の若いメンバーに何か面白い本を教えてほしいと言われて、それでそのときにふと思い出した、というか、頭の表面に出てきたのが赤瀬川原平著「新解さんの謎」。若いメンバーはそれをKindleで読んで、面白かったぁと報告に来たのが訃報が流れたその日だったそうだ。
しばらく立ち話をしてから、ところでこれからどこへ?と聞くと、昼休みに川沿いを散歩しようかなと思って出てきた、と言うから、なんだ同じだ。そこで、二人で並んで30分かそこらを歩いた。
河川敷には野球場やサッカー場が並んでいる。草野球や、近くの高校の練習のためのもので、20年くらい前まで、昼休みになると近隣の会社の連中がグローブと軟球を持ってキャッチボールをする姿があちらこちらに見えたし、もっと前にはバレーボールで輪になって遊ぶ風景も一般的だったんじゃないかな。今日だけかもしれないが、キャッチボールもバレーボールも、誰もやってない。小津映画で丸の内のOLがお見合いの話で翻弄されるようなのがあって、あの映画の一場面では昼休みに屋上で、丸く輪になってバレーボールをするところがあったかもしれない。Hさんと私は、野球場やサッカー場が見下ろせる河川敷の堤防も兼ねているようなサイクリング道路を北へと歩く。
Hさんは赤瀬川原平の住んでいた小田急線のT駅の近くに住んでいるそうだ。そう言えばそんなことも、写真部の頃に聞いたかもしれない。数年前にどこぞの大学の文化祭、と言ってたかな、ちゃんとは覚えていないが、何か外出したついでに、赤瀬川邸、通称ニラハウスを眺めに行ったこともあったそうだ。そこは高台のてっぺん、すごい急斜面にあったそうだ。
昼休みに散歩する人はたくさんいる。でもどういうコースで歩くかはそれぞれ違う。川沿いのサイクリング道路をどこまで北へ、即ち上流へと行くのか。行った先から同じ道を引き返すのか、それとも川の東側のマンションが建ち並ぶ辺りを抜けてからごちゃごたゃした古い住宅街をジグザグ辿り、バス通りに出たら真っ直ぐ会社に戻るのか。そこでHさんにどこまで行くつもりなのかを聞いてみた。すると、そういう歩き方を私自身は考えたこともない、野球場やサッカー場を川の流れの方へ横切り、川の流れのほとりにある細い細い小道を歩くのだと言う。その辺りを歩いていると、ちょっと英国的な景色なのだそうだ。
では行ってみようと言うことになり、誰も使っていない野球場と野球場の間を歩いて川のほとりまで行くと、たまたま最近にそこに繁っていたのだろう雑草を刈り取ったばかりらしく、小道を刈られた草が枯れて覆っているところもあるが道はなんなく歩くことができた。そんな風に草が覆っている所と、小さな水溜まりがあるところと、地面から小石が顔を出してごつごつとしたところがある。昔、と言うのは1960年代70年代の頃を私は思い出してる訳だが、昔はちょっと路地に入れば道幅こそ違えど、雨のあとにはなにかしら水溜まりが出来たし、石が出っ張っているところもあったものだ。草が覆っているというのは常ではなかったものの。そんな道をビジネスシューズて少しよろよろと歩く。春には花大根の花が流れの際からこの小道の両側に咲き乱れる、それがきれいだとHさんが言う。私はその花大根の満開の花の中に路上生活と言うのか、あの方々のテントが埋もれるように張ってあるところを橋の上から眺めて、それは春の好日で、その日だけに限るのかもしれないが、あそこの暮らしが平和で素敵なものに見えたことがあったことを思い出している。
しばらく行くと、川の流れの上に枝を伸ばす三本の柳の大木が並んでいるところに着く。雀が一斉に飛び立った。カワラヒワかと思ったが雀だった。そう言えば何年か前の冬に、この柳の大木を、フクロウの仲間のなんとかって大きな鳥が棲家にしていたことがあって、昼休みに大勢身に来てたんだよ。そのことは初耳で、そんなことがあったのなら私も見たかったな、と思った。
その柳の大木だったか、その先の別の木だったか、Hさんは木の幹と、幹や枝の隙間に見える川の流れの煌めきと、対岸に霞んで見える身を寄せ合うように建った建物を含むその辺りを手でぐるりと囲み、ここなんかちょっと写真になるんじゃないかな、と言うから、昼休みの散歩にカメラを持ってくることもあるの?と聞いてみたのだが彼は「ううん」と否定した。私は彼の示した辺りを眺めた。そうかなあ、と思った。立ち枯れたり刈られて倒れたりした草が茶色い。川面には日の光がキラキラと踊り続けている。でも、私がもしいま一人でカメラを持って、この場所に来たとして、ここを半逆光で撮ることはないだろう。もしHさんがここを撮ったとすると、お洒落に写るのかな。
それから、サイクリングコースに戻り、そこに戻ってしまうと散歩とは言え、もう帰路だった。
私の持っている赤瀬川特集の95年に出た雑誌GQだったか99年に出た雑誌太陽、そのどちらかのページには赤瀬川さんのインタビュー記事が載っていた。そのページの赤瀬川さんは、いまの私やHさんと同じ50代後半で、写真を見るとまだまだ元気に見える。この雑誌を買ってよく読んでいた頃から今日までに流れた時間は、過去を思い出すときの視座の位置もしくは高さをどこに置くかによって長くも感じられるし短くも感じられるが、ちやんと流れた。時間は。そしてそれを折り返すように同じだけの時間が流れればHさんも私も、赤瀬川原平か亡くなったのと同じような年齢になる。そして同じように亡くなるかもしれない。だから、怖いとか、そういうことではないが、しゃぁないねえ、と諦めるような感じがする。漠然と。Hさんにそう言うと、彼は意外にも楽観的で、赤瀬川さんは元々あまり頑強で健康な方ではなかったし、我々はもっと生きるだろう、とか言うのだった。Hさんは赤瀬川原平の著書では「利休」が好きだと言った。
帰宅してからネットで調べると、柳の木に来ていたフクロウはトラフズクと言うそうだ。2011年の震災の直前まで、その柳の木に住み着いていたらしいが、その翌年以降は戻っていないようだった。
三日前の土曜から一昨日の日曜にかけて一泊二日で箱根に家族旅行に行っていた。ポーラ美術館の裏の森に続く散歩コースで、家族のSが手ぶれ補正双眼鏡(本来の目的はジャニーズのコンサートで目当ての男の子をアイドルウォッチングするためのものらしい)で高い木のてっぺん辺りて囀ずるヤマガラを見つけた。
日曜日には大湧谷に行った。車が大渋滞だったので、途中であきらめて湖畔の駐車場に停めてから、ロープウェイで行った。
そのときに撮ったうちの一枚が上の写真で、土曜はフイルムで撮っていたのだが、フイルムが無くなってしまい日曜にはデジタルで撮っていた。
誰かが亡くなると、街を歩いていて、亡くなったその方に、あなたが亡くなっても街はいつも通りでなにも変わらないように見えます、と言いたい。その通りだと思い、死者がそれで安心するような気がするときもある。昨日、いや、一昨日か、関西では木枯しが吹いたそうだ。季節は巡る。
それでもある日を境に劇的にだったり、あるいは徐々なる変化の積み重ねの結果として大きく、街や人や、人の考え方や話し言葉や、なんやかやが変わってしまう。