健診のあとの午後に


 31日の金曜日は会社が補助してくれるガン検診を受けるために休暇を取って都内の指定病院に行き、胃カメラを飲んだ。胃カメラを飲んでいる間の45分くらいの短い時間だけ、すっかり意識不明に眠らされる。胃カメラを入れる直前に静脈注射をする。それで眠ってしまうらしい。もうこの検診を受けるのは3回目で、眠らないようにしていられないものか、とばかり、目を見開いていたつもりが結局はいつもの通り、次に気が付くと控え室のカーテンで仕切られたエリアで移動ベッドに横になっている状態で目が覚めるのだ。受診前の説明書によると、これは全身麻酔ではないとのことである。人によっては眠ってしまうが、人によってはボーッとするだけで眠りはしない、というものらしい。目覚めてしばらく休んで、結果のダイジェストを聞き(一部荒れているところの組織を採取したので結果は後日郵送する、等)まだふらふらするのを、大丈夫です!と主張するが、ロッカーでスリッパから靴に履き替えるときによろけてしまい壁にぶつかってドーンと大きな音を立ててしまった。誰も様子を見に来なかったのでホッとして病院を後にする。

 電車を乗り継いで、TARO NASUに春木麻衣子展「みることについての展開図」を見に行く。http://www.taronasugallery.com/exh/exh_index.html
不思議な感覚にくるまれる。画面の多くを黒が占める。画面の端っこに四角に囲われて像が写っている。写っているのは鹿である。鹿を上から見ている。展覧会の解説によるとキュビズムとかいう単語も使われているが、キュビズムであればデビッド・ホックニーのフォトコラージュの方がずっと近い。これ(春木の写真)は覗き見のようだ。鹿は剥製らしいが、剥製である必要性は感じない。なにもない部屋に鹿が入れられる。その様子をハーフミラーで鹿からは判らない天井にあいた穴からそっと覗き見をしている。覗き穴は小さくて、しかし複数ある。こっちの穴からは鹿の足しか見えないから闇の中別の穴へと自分の目を移動する。そして新たな穴から見ると鹿の頭が見える。鹿はなにもない部屋の隅から隅をくまなく匂いを嗅いだりしてチェックしたあとに、あばれるわけでもなく思案している。さて、どうしたものか?そして覗き見しているこっちも、覗き見をしたいという意図や目的がないまま、思案している。さてこれからどうする?それでもまた、ふと、別の穴から思案している鹿を眺める。この「それでもまた」見たくなるというところが写真の魅力になっているのか、いちど見終えて帰ろうと決めて階段を上がったが、どうも気になってまた階段を降りて行き、展示をぐるりと見て回る。

 町田に移動し、尾辻克彦×赤瀬川原平展を見る。そのまえにたまたま前を通りかかったずいぶんと古い建物に見える蕎麦やに入りあんかけうどんを食べる。病院からもらった説明書に、今日のうちは柔らかく消化によいうどんやおかゆを食べなさい、と書いてあったのを守っている。蕎麦やでうどんを食べることはほとんどないのだが、蕎麦ではなくてうどんにしたのはそういうわけだ。真っ黒に近いとろとろのあんかけ汁にうどんも具も隠れて見えない。温まる。私よりずっと年配の多くは杖を持ったお客が入ってきては、同じく年配の店員と話しながら蕎麦やうどんを食べている。みんなが雨が降るか降らないかを話す。年配の方々は私よりずっと蕎麦やうどんを勢いよく食べる。私より後から入ってきた二人の客が私より先に会計を済ませるとささっとまた暮れゆく街、時折雨の降る街に出ていく。若干の猫舌気味が、私の言い訳だ。
 夜になり、ハロウィンの週末らしく、ところどころに仮装をした人を見かける。着る物からメイクやお面などで完全になにかになっている人もいれば、制服にバックを持っていつも通りの女子の高校生なのだが、鼠のような髭だけはしっかりと頬に書かれている、そんな人もいる。
 赤瀬川さんの原稿に書かれた律儀で小さい字を見た。

 家族のSと帰宅時間が近かったので茅ヶ崎駅で待ち合わせて一緒に帰る。