晴れない休日


『「価値判断」が(芭蕉の一門のような)古人と明治以降の私たちとでは百八十度違うのである。一、二例をあげると、古人のものは、
「四季それぞれよい」「時雨のよさがよくわかる」
である。これに対応する私たちのものは、
「夏は愉快だが冬は陰惨である」「青い空は美しい」
である。特性を一、二あげると、私たちの評価法は、他を悪いとしなければ一つをよいとできない。刺激をだんだん強くしてゆかなければ、同じ印象を受けない。こんなふうである。 』

岡潔の「情緒」と題された随筆に、こんなことが書いてあった。( )かっこ内は私が追記
これを読んだのか十日くらい前だろうか。そのあと、フィンランドの女流作家レーナ・クルーンの小説「蜜蜂の館」を読んだ。下北沢の古書店で買ったもので、積ん読タワーに埋もれる前に、無事に読み終えた。面白かった。

今日11月1日の土曜から3日まで三連休だ。今朝、土曜の朝に家族のSと二人で森ノ珈琲へ朝食を食べに行く。Sはモーニングカレーにして、飲み物にはココアを頼んだ。私は目玉焼きの方のモーニングに有機栽培珈琲にした。しばらくして出てきたモーニングの目玉焼きの黄身が少し破れて中身が流れ出している。気が付かないくらいの孔と、気が付かないくらいの流れだ。大したことではないが、どちらかと言えば破れてない方が気分がいいんじゃないかな。数日前に出勤前に都内某所で食べた目玉焼きも、こっちはもっと派手に黄身が流れていた。二度続いたから、一度目を思い出す。

Sとあれこれと話題が飛びながら話しているうちに、冒頭に書き写した岡潔の随筆のことを思い出し、それについて話す。しかし、随筆を読んだのはもう十日も前のことで、もちろんSに話す前に再読して内容を確認した訳でもないから、それは岡潔の随筆にこんなことが書いてあった、と話しているつもりでありながら、岡潔の随筆を読んでから十日くらいたって自分のなかで消化吸収した現時点の解釈はこんな風である、ということを話したのに違いない。
私がは、そのとき話す前に、大きなガラスの窓から外を見ながら今日もまた曇天で小雨さえ降ったりやんだりしていて、写真を撮りにつつ散歩するような日には快晴であって欲しいのに残念だ、しかも今日からの三連休の天気予報はずっと曇りか雨で残念だ。そう言えばこの前の土日に箱根に行ったときも晴れ間がのぞいた時間が少しだけで、特に日曜日はほとんどが雨だったから、せっかくの紅葉(箱根湿生ま花園の草紅葉などは見事だった)も日を受けてキラキラと輝くようには見えなくて残念だ。さらに言えば9月の終わりからフイルムカメラで撮っているがその頃からあまり晴れに当たっていないので残念だ。と、残念だ残念だ、ばかりを思っていた。そこで、岡潔が冬より夏の方が好きだとか、晴れの方がいいとか、感じるのではなくどんな天気でも季節でもそれそれそこに良いところがあるものだ、といったことを書いていたな、と(多分に上記のとおり自己解釈した内容だが、そう)思い出したのだった。そこで朝食を食べ終え、家に帰るために車を運転しながら、Sに向かって、連句って知ってる?と切り出し、岡潔の言うところの連句の楽しみには、それぞれが情緒をわかってることが前提なんだって、と、にわか知識プラス勝手な解釈を持って話した。そしてそこから、自分自身もカメラを持って散歩するときには晴れていることを望んでしまうけれど、岡潔が言うところの芭蕉の一門たちは、どんな天気でもそこからなにかの良さを見出だすことができたんだって、と話したわけである。
それから、しばらくなにか別の話をしていたか、黙っていたか、それともその連句とか情緒の続きの話をしていたか、良くは覚えていないのだが、国道一号を日産のショールームのある信号で左折して、左側にセブンイレブンのあるすぐ先で右折して、道なりに左カーヴを切り、小学校の手前を右折する辺りに来たときに、Sが中学の国語の先生が、授業のときに、ふとしたなにかのきっかけでひとつ先の季節の気配のようなことを感じることがありますね、とおっしゃったことを思い出したようで、その話を始めた。
 先生がそういう話を始めたので、中学生のSは考えた。そして、夏休み中の最後の登校日、それは毎年8月の下旬に決まってあったそうだ、その日になると、秋の気配を感じるということを思い出して、もし指されたらそのことを話そうと決めたのだそうだ。その8月の下旬に、Sがどこに秋を感じたのか、そのこともSは話してくれたのか、運転に気を取られていてろくに聞いてなかったのか、その肝心なことをいまこのブログを書いているときになると覚えていない。空が高いとか、夕方になるのが早くなったとか、気温とは違うどこかから秋の気配が忍び込む。真夏の木々の葉の濃い輝きもだんだん艶を失っていくだろう。いつのまにか秋の虫の声が聞こえ、蝉の種類もミンミンゼミやアブラゼミは相変わらず騒いでいても、そこにツクツクボウシが混じるだろう。こんな風に言葉で具体的な変化を並べ立てることはそういう風に理解していることを書くから文章に出来るわけだが、本当はこういう風に文章で現すことが出来ることだけてはなく、言葉に出来ないけれど秋を感じることになる何かがあるのではないか。
このSの話は直接、私か話した岡潔の随筆に書かれていたこととは関係がないかもしれないが、岡潔の随筆を読んでから十日くらい経って私が話したことを、Sがまた咀嚼してから頭のなかでいろんな連想をしたのちに、話し始めたことだった。
 上に書いたようなことよりも、もっと時間の流れから、すなわち6月7月8月といろんな行事ややってきたこと、夏休みの宿題や家族との旅行とか、さらにあと何日で夏休みが終わるという先のことを周知している「予定」、そういったことの全部が作用して「秋の気配」が心の中に発生したのだろう。

 午後、家族のMとTと義母で遅い昼食を食べる。夕方H市のブックオフへ行く。石塚元太良の写真集、判型は小説の単行本くらいだがページ数の多い厚い本が200円で売られていたので買ってくる。ページをめくり、旅の写真が次々と現れ、写真家はこの一枚一枚にいろんな思い出があるのだろうがもちろんそんなことを知りえない。知りえない思い出があるという前提で写真を見ていると、消えてしまった思い出の残像のようなことがあるのを意識出来る。そうすると最初はつまらなかった写真集が面白く見えてきて、早い速度で行ったり来たりしながらページを繰るのだった。

蜜蜂の館―群れの物語

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world wide warp

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