横浜みなと


9日日曜。ヤンソン展のあとに、そごうやポルタ(横浜駅の地下街)で買い物をすると言う同行の家族の女性陣と別れて、なんとなく、強い動機もないけれど案内看板を見たこともあり、シーバス乗場まで行ってみる。行ってみたら次の出船まで5分くらいで、もうすぐなのに列も数人しか並んでいない。じゃぁ乗ってみようかな。終点の山下公園まで切符を買う。曇天、雲は厚い。オープンスペースの後部甲板にあるベンチに座る。カップルが三組か四組。一人の若い女性。

フイルムの一眼レフカメラのファインダーで、レンズのピントリングを慎重に回しながらピントを探るが、視力低下を痛感する。夕暮れ時で暗くなっていくと二重像を合わせる(スプリットイメージ)のピント合わせがよく見えない。仕方ないからマット面の鮮鋭度を見ながらリングを行ったり来たりして憶測のもとにピントを追いこんで、後、距離リングの距離刻印を見てだいたいにおいて距離がおお外れしていなさそうなことも確認する。そんな風に撮っている。そんな風に甚だ心もとないのに、フイルム感度は400で、今どきのデジカメみたいに6400とか
12800とかを、しかも一コマづつ切り替える自由、ん?自由、なのか?ま、なんだかわかんない、自由だか便利だか。とにかくそういうことが出来ないから、写る写真もあやふやである。もちろん撮れた写真がちゃんとしていて欲しいと思う気持ちもあるが、やっていることから自分自身のコトを類推すると、わざわざちゃんとした、という意味はここでは露出が合っていて、ぶれてなくて、ピントの状態がぼけの状態も含めて想定通りで、色再現やらも忠実で、といったことだが、そういうちゃんとした写真を撮ることの確率がずっとずっと高い最新の一眼レフデジカメを持っているのに、わざわざそれを避けているのは、どうしてなのか?

そういう写真を撮って出来映えに満足するよりも、ピント合わせに苦労したり露出の勘が当たったことを喜んだり、そんなことの楽しさの方を大事に感じる、感じるなんて意識的にそう分析し認識するってことじゃなくて、そんな感じなのか。
なんだか、最近、これと同じようなことばかりをこのブログに繰返し繰り返し、飽きもせずに書いている。

横浜駅のデパートSOGOの先から山下公園までのシーバスには直行便と、途中で、みなとみらいと赤煉瓦倉庫のところと、二ヶ所の途中駅に立ち寄って行く船の二種類がある。私の乗ったのは後者だったから、急ぎの用事もなく、というより何の目的も用事もなく、ただの気紛れのようにシーバスに乗っているには都合がよい。
途中駅は浮き桟橋って言うのか、そういう乗降場に船を待つ人の列が出来ている。数人からせいぜい十数人の列が浮き桟橋はもっと広いのになんだか必要以上に身を寄せあって船を待っている。寒々しくもうじきには降りだしそうな雲がたれ込め、あたりは夜に向かってどんどん暗くなる。シーバスとか、みなとみらいとか、赤煉瓦倉庫とか、最新の観光地てはあるが海の上からシーバスの列を見ていると、なんだかいつの間にか隠していることが普通になっている人間の臭さとかドラマとかが、変わらずそこにあるってことをわからしめる。
山下公園に着く頃にはもうすっかり暗い。船を降りてホテルニューグランドの方へと山下公園パラ園を突っ切って歩いていると、とうとう雨が降ってきた。しかしほんの小雨のせいか、ベンチに座るカップルたちは誰も立たないで寒いことや小雨が降ってきたことをいいことに、さっきよりもっと身を寄せるようだ。