トーヴェ・ヤンソン展


  横浜のそごう美術館で開催中の首記の展覧会を、先週見てきた家族のTの感想を聞いているうちに見に行きたくなり、Tを除く残りの家族三人で日曜の午後にノコノコと出掛けた。写真はそこだけ撮影可となっていたトーベ・ヤンソン夏の家のジオラマ模型です。

家族のTやSが幼稚園や小学校に通っていた頃に、テレビでムーミンをよく見たものだった。私自身が子供の頃(60年代後半か?)にもテレビアニメのムーミンが放送されていたが、私の子供たちが幼稚園か小学校低学年の頃の90年代シリーズは、随分と登場人物の名前や物語も変わっていたようた。ムーミンの恋人は昔のはノンノと言ったが、90年代の新しい(と言っても既に随分と昔か)方ではフローレンだった。
テレビアニメて長く続くとなると全てが原作者の作った物語とは行かなくなるのではないか。90年代シリーズで、魔女のクラリッサが箒でなんなく空を飛ぶのを見ながら飛行機開発にせいを出すフローレンの兄のスノークが、気球に乗って世界を回ってるラッキさんに打ち勝って、普段は誉めることなどしないクラリッサに、こいつは凄い、と言わせる話などは不屈の挑戦と成功の物語で大人が見ても感動的であったな。歴史に照らせば産業革命の萌芽のような、新しい時代をみんなが共有していて、何も迷わず向かうところがはっきりしている明瞭さがあった。でもこれはヤンソンの原案か原作ではないのかもしれない。
極めて個人的な偏見だけど機械が目に見えて連動して、発明の新しさの理解が容易で、進歩の実感が共有出来た頃は素晴らしかったのではないか。進化の分野が目に見えなくなって、何億台のスマホの通信のための目に見えないニョロニョロが空中をはい回っているような想像しかできない気持ち悪さ、いま手にしているスマホやゲーム機が動く中身がわからずに、ICチップの、2001年宇宙の旅の石板のようなことしか思い浮かばないもどかしさ。専門家と一般人の間の理解の隔たりか拡大するってことはブラックボックス化され見えなくなり、バラバラになる一因で、そんなことが実は生きにくい世の中に繋がってないか?
しかしだから、文明を捨てて自然に帰れなんて言われてもそんな勇気はないし、いまの経済システムはそんなことを許さない(他に手がない)のだろう。
でもってジャコウネズミ(ムーミンの登場人物)のように厭世的にムダじゃムダじゃと言う人もムーミンのアニメにはちゃんといるのがいいですね。