コルビュジエの写真展 鈴木理策/意識の流れ展 ニセアカシア会

早稲田大学会津記念館でル・コルビュジエの写真展を開催していることを季刊紙IMAのON LINE展覧会情報で知り、今日から初台のオペラシティのミュージアムで始まる鈴木理策写真展「意識の流れ」に行く計画にくっつけて見てきた。解説によれば8ミリの動画フイルムの合間に駒撮りされた静止画がはさまっていて、最近になってそのことが明らかになったとあった。
入口に入るとコルビュジエが使っていた眼鏡が飾ってあった。真ん丸のフレームで、鼻当ての、小人の靴のようなところ、あるいはセルフレームの場合はフレームから餃子の皮を閉じたシワのように盛り上がったところがない。
夕方、代々木八幡の店でニセアカシアのメンバーと会ったときに、その話をしたら、Hさんから鼻当ては日本人の発明だと教えてもらった。鼻梁の低い日本人が眼鏡がすぐに落ちてくることに困ってやむにやまれずに発明した、なんて豆知識になりそうな鼻当ての歴史があったのかもしれないな、などと想像してしまう。それなら、いまでも鼻梁の高い民族の方が主たる構成の国(言い方がまどろっこしい!)の眼鏡屋には、小人の足も、餃子のシワもない、コルビュジエの使っていたような眼鏡フレームを売っているのだろうか。
脱線しました。
コルビュジエの写真はブラジルやフランスの避暑地やアラブや、それらの国々を行き来した洋上で撮ったものからなる。それが動画のフイルムの合間に撮られたことが関係しているのか、何かとても時間に沿ったコルビュジエの視線と言うか興味が向かう先の、そこを「見ている」変遷が、リアルに感じ取れるようだ。8ミリフイルムと言う小さな面積のフイルムであるがゆえの低画質が、それが却ってもたらしているようなリアリズムがある。
休日を楽しむ家族から、訪ねた観光地の旅人としての視線。そう言うのは、写真のテクニック的な画面内の被写体の構成や、どの瞬間を撮ったのか、などによる良し悪し、上手い下手はあるにせよ、誰でも知っている家族の楽しげな休日の記録でほほえましい感じがする。しかしそう言う日であっても、波や樹木や、船の細部に視線が向かうと、執拗な造形に対する興味が、そこを見詰め続けていることになっている。いや、こんなのは単なる思い込みなのか、あるいはこちらが勝手に解釈する座りのよい物語をでっち上げている結果なのか、ちょっとそうではないと言い切れる自信がないのだが。
入口のそとに設置された波打ったスクリーンに液晶プロジェクターでこれらの写真が挟まっていた動画の方が、一時間に一度か二度か、ときどき映される。それも見た。コルビュジエの視線は興味の赴くままにあちこちへと動き、パンニングも早くて、誰かに見せるために撮った動画なのだとしたら、見にくいようだ。コルビュジエ本人が写っている場面、即ちカメラマンは奥さんか友人なのか、その場面の方は安定しているのに。
いつでも視線がなにもかもを見てやろうと素早く、さ迷う、ではなく、今風に言えばスキャンをし続けていたのではないか。

そのあとにオペラシティで鈴木理策展を見て、夕方にはニセアカシアのメンバーと打ち合わせ。