もう一度


 立石海岸の一本松がある小さな岩場のてっぺんに登っていくおじさん。私もいま登ってきた。そのあとに黒いコートを着たおじさんが行った。どうしておじさんたちはみんな登るのか?なんとなく、見回した風景の中にある、特徴的なあそこに、じゃあ行ってみようかな、といった程度なのだ。どこでもいいって言えばどこでもいいのだ、きっと。ただそこに登ったり降りたりしながら当面のたいしたことのないことを考えたりしているのだろう。あっ富士山が見えるぞ、程度だったり、表に出ていることといえば。本人も気付いていない無意識な領域でなにか喜怒哀楽のどれかに包まれた感情を紐解いているかもしれないが。
だが待てよ、と思う。幼児だって、少年だって、青年だって、みんな登るのではないか。興味が沸くんだろうな。些細な特別に、嫌ではない特別に、あるいは怖くはない特別に。いや、怖い特別にも嫌な特別にも興味はひかれる。ひかれて特別に遠ざかろうとしたり、ひかれてそこに近付こうとしたり。立石の一本松の生えた、そのあたりで一番高い岩場の突先にちょっと行ってみようかな、と、誰もが思う。天気がいい平和そうにみえる暖かい冬の日に。
むしろ、行かなくていいや、と思う人の方が大人っぽいのかな。妙齢を少し越したくらいの美人が、「あたし、いかないわ」なんて言ったり「あなた、行ってきなさいよ」と呟いたりしたら、行かないと決めたことにたいした理由が本当はなくっても、たいした理由があるように思えて、ナンデナンデ?と慌てたりする。
あー、それが青春。なんちゃって。


 近くに泉鏡花の碑があった。「草迷宮」という作品は、母に聞かされた手毬歌を「もう一度」聞きたいというだけでそれを探して旅をした結果ここ秋谷で出会う、という話だと碑に刻んであった。

 もう一度、と思ってなにかを訪ねる。訪ねているうちに期待が膨らむ。大抵は実際に見つかると「こんなもんか」と思うのではないか。とか、つまんないことを考えてしまうのは人の(私の)性格だった。

家族のMと横浜中華街のSって店で食事をした。もう15年か前のこと。冬の休日に。いや、季節は曖昧にしか覚えていないな。初夏かもしれないし。
Mはそのときにジャージャー麺を食べた。それがとても気に入った。そこで、また行きたいまた行きたいと思う。横浜中華街なんて住んでいる茅ヶ崎からは一時間しないで着くのだからすぐまた行けばいいが、実のところはそこまでのことでもない。気が向いてふらりと、と言う気分にうまくはまって再び横浜中華街に行ったのは一年後くらいだった。満を持して!Mはジャージャー麺を頼んだが、あれーこんなんだっけ?まぁ、不味くはないけれど一年前の驚くような美味しさは消えている!レシピか料理人が変わったに違いない、と思ったりする。
この場合は横浜中華街のSはちゃんとあって、ジャージャー麺もある。それでも違った。食べる方のその日その時の気持ちを作っている諸事情やらの背景のあれこれ、その瞬間までに五感が感じていた気候からの影響、などなど。全部違ったからか。
でもそんなあれこれがすべて違っても「この味だけは変わらない」「いつもここに来ればこの味が待っていてくれる。ほっとできるひととき」なんて場合もあるものだ。

亡父は学生の頃に食べた「甘くない」ハヤシライスの味が忘れられないと言っていた。どこのなんて店で食べたものだったのか、そう言うこともきっと言っていたとは思うもののすっかり忘れてしまったな。
もしかして味が近いって言うかもしれないと思い、上野の精養軒に一緒に行ってみたことがあったが、これは甘くて全然違う、と言っていた。
上野には絵の展覧会を見に行った、そのときのことだ。なんの展覧会だったか忘れてしまったな。

草迷宮で探していた手鞠歌だかにやっと出会えた主人公はがっかりはしなかったのか。こんど、読んでみようかな。