もうすぐ暮れる


 よく乗る宇都宮駅発5時30分だったか40分だったかの上野行き普通電車。車窓の風景が真っ暗ではなくなってきて、日が長くなっていることが判るのだった。
とは言え、コンデジの露出を±0に設定しておくと、実際に目に見える明暗よりもずっと明るく写る。明視反応と暗視反応にも関係しているのかもしれないのだが、人の目に見えているのは明るさの絶対値によって、暗くなればなるほど、同じグレーでも、明るいところで見たそのグレーと、暗いところで見たそのグレーは同じ明度には見えていなくて、その兼ね合いが実に絶妙で・・・というのはちょっと傲慢な言い方で、そういう風に人間の視覚が構成されているその見え方がイコール主体たる私の見え方なのだから、その見え方が当たり前で基準となっている。そしてそれで夜や昼を見分けているのにも寄与しているのかもしれない。
 一方のデジカメはと言えば、どんなに明るさの絶対値が変化しても、同じ灰色を同じ灰色の明度に再現するように露出が調整される。だからこうして、いつもの古い住宅を流し撮りしたそのときにはかろうじて建物が見えただけだったのでなにも気が付かなかったのだが、写真に写ったものを見返すと、こうして何年もここを通過するときに撮影してきた古い平屋の賃貸住宅が、取り壊されているのだった。公団の団地も、この写真のような「市営住宅」の場合が多そうな平屋の古い住宅も、なんだかここ数年のあいだに、最後の最後に残っていたところがとうとう息を止められている感じがする。
 大建築家が残した東京駅のような建築遺産が保護されるのに対して、市井の風景を作っていた一般住宅や駅前の飲み屋街や下町の商店街などを形作っている建築様式のうち、昭和40年代50年代くらいに建てられたものは、どんどん建て替わって古い時代が消えていく。それよりもっと古いと壊滅的。こういう庶民の暮らしの中にある建物にも、建材の大幅効率化や組み立て作業のしやすさや、人の住みやすさを向上するための諸改善改良(であって本当は改悪のことも多々あるに違いない)が次々に起こる。こういうことを次々起こして競争しながら発展し、そこにお金が回るのが今の経済システム。それがグローバルで世界が日々動いて行くための原動力なのだから、好きだろうが嫌いだろうがそういう社会でのうのうと暮らしている以上、しゃあない、と思う。その動いている超巨大な全体像の中のどこか一部だけを取り出して、声高に不満を叫んでも、風が吹けばおけ屋がもうかる式につながっている全体を見回して主張しないと、自分の首を絞めるところに戻って来ることもある。
 と、話がだんだん脱線してしまいました。ただ市井の風景を構成する建築物もどこかに「残す」努力をしてもいいような気がするって言いたかったんだった。もう新しいものを受け入れる度量が減ってしまって、変化を楽しめない、というのが老人になる証なのかもしれず、そのために悪あがきをするのもカッコ悪いし、目を背けていると潮だまりに残されて大海に戻れなくなったドジな魚のように右往左往する。
 とかくこの世は、住みにくし。