車窓スナップについての勝手な考察


このひとつ前のブログに、
A)年を取ると早起きになる×年を取ると身体を動かすのが億劫で、自家用車を使いがちになる。(朝はまだ道が空いていてよい)
B)ところか、目的地がなにかの施設、例えば美術館とか、の場合、そんなに早く開館していない×あるいは、昼間には人が集まってくるような場所であってもまだあまり人出は少ない。
C)(写真趣味に当て嵌めれば)結果、人のいないタイプの風景写真を撮るのが理に適ってくる。
D)しかし、撮りたい写真が、人のいるスナップなのだとしたら、AかBの条件を変えるべきだ。
E)私の場合は、自家用車を使うのをやめて、なるべく歩くことにしたい。
F)歩きならば、気紛れに道筋を選び、不意のなにかに出会い、と言うことも増える。これすなわちスナップの王道。
なんてことを書いた。しかし、こんなのは個人の呟き的な、個人都合の、自分を納得させる、と言うか、思い込ませるための詭弁で、一般論としての説得力には欠ける。いいんです!個人のブログの他愛ないハナシ。
と書いてたら、内田百けん(もんがまえに月)が、身体検査の結果で牛肉を食べるなと言われたが牛は藁を食って出来ているのだから藁だとすれば牛を食うのも平気だ、みたいなことを書いてたのを思い出した。しかし、こんなのもそれを読んだのが20年以上も前だとすれば、記憶が紆余曲折の変遷を経ていて、どこにもそんなこと書いてなかった、なんて可能性もなくはない。
さて、やっぱりスナップは町歩きからだ、とか言ってる一方で、もう10年以上も前から、主に単身赴任先の宇都宮と自宅のある茅ヶ崎のあいだを週末に帰宅するときなどに電車で行ったり来たりする際に、車窓スナップを撮り続けている。本当はもっと多いのだが、仮に月に2回そう言う撮影をしたと仮定して、年に24回、10年で240回。その度に、本当はもっと多いのだが、1回あたりに仮に200枚の車窓スナップを撮ったとすると、48000枚かあ。どうするんだコレ。本当はこの二倍か三倍はありそうだ。
と言ったことはさておき、一方で撮影の自由度が確保できる町歩きこそがスナップたるものだ、と言う上記の結論に至りながらも、撮影位置は変えられない、風景は一瞬で後ろに飛び去る、構図を考える余裕なんてない、戻ることも出来ない、気紛れに停まったり戻ったり折れ曲がったり出来ない、そんな風に自由な町歩きと比べると制限だらけの車窓スナップになぜこんなに夢中になるのか?
そう言う自由がない変わりに、車窓を流れ去る風景の目まぐるしく変わるその速度は、どう現すのがいいのか、例えば十分の一秒ごとに目の前にある風景が、ひとつ前とかひとつあととかと、どれだけ違ったかと言う、変化率のようなこと、この瞬間に視界にあったいわゆる被写体の要素が、ひとつ前やひとつ後にどれだけ残っているか、でもいい、そう言う変化が町歩きの何倍も何十倍も、もしかしたら何百倍も早い。
町歩きで勝手気ままに歩きながら、スナップするときの、眼前の風景を変化させるのは、自由意思で辿った道筋を、さらにキョロキョロすることで自発的に起こしている要素が強くて、そこに動いているもの、日差し、風、歩行者、等の偶発的な(と言う単語が正しい気もしないが)要素が加わる。そこから、撮るべきところを探している。車窓スナップは、上記のような自由が少ない変わりに、次々と目まぐるしく、やって来る風景が変わる。特に、遠景ではなくて、線路脇で電車に手を振る子供や、踏切で待たされている自転車の人などは、あっという間にやって来て飛び去る風景だ。下手をすると、と言うよりこう言うトラブル要因にどう対処するかが車窓スナップを成功させる鍵なのだが、近距離過ぎて流し撮りが追い付かない、早すぎてAFが間に合わない、そこでマニュアルフォーカスにするがコンデジのレンズの先端をゴツゴツと窓のガラスにぶつけているうちにフォーカスが外れることがある、でもそうしないと電車の車内の明かりが変な風に回り込む。そもそもシャッタータイムラグを予想して早目にシャッターを押すのだが、タイムラグもばらつくのは電池節約のスリープに各機能がどこまで入ってるかにもよるのか、なにかのアルゴリズムが回ったか回らないかによるのか。すると踏み切り待ちの人なんか、シャッタータイミングがちょっと早かったり遅かったりすると、踏み切りの赤いクロス形の点滅するライトやその支柱や遮断機の根本あたりの機構や、そんなものの影に入ってしまう。
実は確率は相当低い。まず狙ったところが流し撮りで止まらない。止まった距離が狙いより奥に行くことが多いが、近くに来ることもある。そのときのシャッター速度にもよるが近距離で飛び去る被写体を止めようとしても、うまく止まるのは十コマにひとつもない。そこは、ある程度ぶれても許容する割り切りと言うか、割り切りだとやはり妥協ってことだから、そうではなくてそのブレも車窓スナップの醍醐味、面白さとして積極的に偶然を救い出すなかで拘らないことにすることだ。
それから、上記の踏み切りのように手前に通りすぎるものに隠れたり。
あるいは、狙った被写体が画面に入ってないこともある。
しかしいちいち結果を確認したり後悔したりは出来ない。それよりまた次々と目まぐるしく変わるなかから瞬間を撮り逃さないように必死に車窓を見つめるのだ。あっ!と思っても、一瞬の気持ちの躊躇いや、身体反応、と言うのは指がシャッターを押しながらカメラを流し撮りのために動かす行為に過ぎないが、それが追い付いてこれないと撮り逃してしまう。私は何らかのモニター画面に展開されるタイプのゲーム、今のゲームはほとんどがそれなのだろうか、要するにトランプとか野球盤じゃないですとだけ言いたかった、その手のゲームはやらないけれど、その手のゲームの反射神経に頼るようなことが車窓スナップには求められる。
すなわち、車窓スナップは動き回れる自由がない変わりに刻々の風景の変化は凄まじく、その流れ去るなかのどの一瞬にどう反応するかの連続になる。
結局は一期一会の目の前の風景か光景かから、どこを切り取るかの判断の連続と言うことからすれば、いずれ町歩きスナップも車窓スナップも、その他なんでも、スナップとはそう言うものだろう。何らかの手段で目の前の光景を変化させることが肝要。それが出来ればスナップが成立するのだ。

PS どうも私は風景と光景の違いを自分なりの使い分け方を、明確に出来てなくて、だからこの文章にも両方の単語が混在してしまっている。