夏の車

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電車の車窓から写真を撮ることばかりになっている感じがする。あるいは今月は読書に時間を使えていない。まぁ開会式前から始まっていたオリンピックのサッカー観戦などで時間を使っているのだが、このオリンピックのテレビ観戦というものが、コロナ禍で具体的にやりたいことに制限が掛かっていてやむなくテレビを観ている・・・のではなく私はスポーツ観戦が好きだからコロナがなくてもそうしていたとは思うのだが、それでも気持ちとしてなんとなくコロナ禍だからこうしてテレビを観ざるを得なくなっているという、なんだろうか・・・言い訳めいた?鬱屈したような気分の欠片があるのは、なんでなんでしょうね。写真を撮るのもなんだかこうして車窓からのスナップだけになっているのは決してコロナ禍と言うことではないだろうに、気分としてコロナ禍だからこんな写真しか撮れない、といった言い訳めいた気分が確かにあるのだ。上記の読書が出来ないのもそんな言い訳をしたくなる。これって何か?と言われれば、結局は行動制限ややりたいことの制限をそれほど具体的に明確に受けてなくても、長い間ずっとなんとなく会食はダメ、飲み会もダメ。写真展や絵画展などの美術館やギャラリー周りは止めていないけれど、でもどこか気を張りつつ急いでちゃちゃっと鑑賞し、展示を観た回数で言えばコロナ禍になる前の自由に回っていた頃の五分の一にも満たないんじゃないか。さらにはひとつの写真展をじっくり観ると言うような冷静さにも欠けていて浮き足だったような鑑賞しか出来ていない。といった小さなその場その場ではそのくらい大丈夫という我慢が小石を積み上げたみたいに上に伸びていてそろそろ崩れるかもな・・・という状況になりつつあるのかもしれないです。なんて書くとさ、そんな自粛疲れなんてのを言い訳にして不要不急の外出をしてるんじゃねえよ!と怒られそうで、それがまたストレスサイクルになってしまう。

わたしは夏って季節は好きなんですよ・・・

さて・・・車窓からの写真を撮るときに、その窓ガラスがどれくらいの透明度にあるかはそれぞれで凄く汚れている車両のこともあるし、本当にきれいで透明なときもある。それによって写る写真が全然違ってきますね。汚れた窓ガラス越しの写真は言い方を変えるとソフトフィルターを付けたような感じに像が滲んで、これはこれで悪くないじゃん、となることも多々あります。上の写真のカバーを被った車の周りに起きている若干のハレーションのような光の滲み。下の写真では左側が白っぽいのは窓ガラスの反射の映り込みだけれど赤い車がなんとなく滲んでいる感じなのはガラスの汚れによるソフトフィルターっぽい効果ですね。そういうのが相まってなのかな、この自分で撮った写真を見ていて、ああ、窓ガラスの向こうにはいつもの日本の真夏があるなと感じました。そこには電車を降りて改札を出て階段を下りて汗をかきながら歩き始めれば何の制約もなく属することがあるいは行くことが可能のはず。そうであるにもかかわらず、電車の車両の中の冷房の効いた空間から通り過ぎる風景を撮っていると、これはちょっとだけ過去を撮っていて、私はすでに晩夏の哀しさのなかにいるような気分に苛まれます。するとこうして「ばんか」と書くと「晩夏」だけでなく「挽歌」と言う単語が並ぶのも意味深に思えたり。

以前誰だったか有名人?著名人?芸能人?の女性の方がラジオで「ひとりで、ふと思いついて深夜に車で自宅を出て、そのまま朝には日本海を眺めていた、そういう予定調和のない自由な行動をときどきするのが好きです」と言っていた・・・気がするだけかな・・・。でもそう言うのに憧れるなぁ。

まさに不要不急の外出の極みであり、でも三密には一切なってない(帰り道に道の駅や高速のSAの店に寄らない前提)。

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