デニーズモーニング


朝、家族のなかで一人だけ早く目が覚める。一人で珈琲でも飲みながら朝の読書で有意義な時間を過ごす、そんなこともこうして書くことは出来るが、実際にそうしようとは思わない。窓から外を見ると、今日は薄曇り。たまに日がさすので少しはましかな。ずっと、土日になると快晴が来ない。快晴になれば写真を撮りたいと言う意欲が沸いてくる筈なのだが出鼻を挫かれる。もしかしたらそんな気がするってだけで、快晴が来ないってのも気のせいかもしれないが。それでも、なんだろう、消去法の結果それしか残らないからと言う理由だけでで、トートバッグのなかにコンデジと財布とスマホと読み掛けの文庫本、朝に服用する決まりの錠剤、家の鍵と車のキーレスエントリーの発信器、ポケットティッシュにバンダナ、折り畳み傘、こう書くとけっこうたくさんあるものだ、それで必要最低限と思っているわけで、全部放り込み、出掛ける。玄関を出て、マンションの階段を降りながら、車か徒歩か自転車かバスのどれを移動手段にするか、さてじゃあどこに行くのか?まだ迷っているときもあれば、またもやこれでいいやと決めてるときもある。車で湘南平に上がって相模湾を見渡して、空と雲と海と町の風景を見に行ってから、帰りにありきたりだけどほかにあんまり選択肢がないので、デニーズでモーニングでも食べてこう。
湘南平テレビ塔の一般の人も上がれる階段を上り、景色を眺める。下から風が吹き上げてくる。寒い。風のなか、烏が数羽、飛んでいる。烏は町のなかでごみ置き場の、人間の出した食べかすを狙っているときや、電信柱や電線に止まり、人間を見下ろしながら何か良からぬことを企んでいる(わけないが、そう見える)ときとは違って、すごく楽しそうに見える。風の流れは場所によって細かく変わっているのかな、下に向かったり上に変わったり、強かったり弱かったり、そう言う方向や強さが同じ空間上の一点でも刻々変化したり。そのなかを、その空間を、数羽の烏が遊んでいる。遊んでいるように、楽しそうに、私には見える。まるで鬼ごっこをしているように見える。するとかいつもは残飯を狙う狡猾で品位のない、真っ黒で醜いと思っている烏が、賢く愛すべき美しい鳥に見えてきた。
帰り道に予定通りに立ち寄った平塚のデニーズ千石海岸店は、一年か二年か前に天井のボードが落ちてニュースになった店だが、その事故の原因は改装工事の時になんらかのミスでもあったからか、建物の老朽化とは直接的関係はなかったみたい。当時のニュースをいま読むと、そんな感じ。
なのでこの事故のことはさておき、このデニーズは古くからある。調べても何年に開店したのかわからないが、80年代にファミレスが主要道路沿いに一気に増えた頃の店だろうか。バブルの頃、庶民にも小金が回っていたささやかな証明はあの頃のファミレスがすごく混んでいたことかな。よく聞く、銀座のバーで一本何万円、何十万円するお酒を、ガンガン飲んでいた何て言う業界とは関係なくてそんな極端なバブル経験は持ってないけど、みんないまより外食してた、あれもバブルだったんだろう。
昭和の頃にできた新しい町はもう新しくなくて、昭和の懐かしさを纏って古い町になっていく。それと同じく、古いデニーズは、新しく日本に入ってきたアメリカンなダイナーではなくて、あの頃には新しいともてはやされたんだよなぁ、その香りが残る懐かしいファミレスと言う古い外食形態になりつつある。
サニーサイドアップって単語もスクランブルドエッグって単語も70年代後半にはじめてデニーズに行ったときに覚えた気がする。
朝のデニーズのウエイトレスは近所のオバハンたちだ。近所のオッサンは、入り口で無人の金属製硬貨入れに代金を落とし、日刊スポーツかスポーツニッポンを買ってから席に着く。常連のオッサンにオバハンウエイトレスが、いつものねー待っててくださいねー、と親しげに話す。こうして懐かしくなったファミレスになって、なかなか味がある場所になった。特にモーニングはうまくも不味くもない変わらない味。よく焼きで目玉焼きを頼んでも、私の希望よりはずっと半熟のまま出てくるその黄身を、破れて中身が溢れないようにうまく一口で口に入れる。