雨の上野公園


金曜の夜は8時まで開館している東京都美術館ゴッホゴーギャン展を観に行く。雨の夜のせいもあるのか、ガラガラってわけではないが、まぁ、空いているのだろう。ストレスなく絵を眺められる。展示はゴッホゴーギャンが南仏でともに暮らした、短い、けれども濃密に絵画について語り合った熱い日々にスポットを当てている。それ以前の作品も、以後の作品も展示されているが、添えられた解説文などを読むと、同居していた日々を、それぞれの人生の交差ポイントに添えて、そこに至る、もしくはそこを振り返るように鑑賞者を誘導する。そこになにをも圧倒する力を持って、作品がある。にもかかわらず、この誘導のための、物語たっぷりな文章を読むと、読んだことで、実はろくに絵画を観賞出来ていないのに、作品をじっくりと見た気になるのてはないか。昨年だったかな、写真家の鈴木理策さんが、写真はそこに何が写ってるかを確認すると多くの鑑賞者はそれ以上を見ない、と写真展の口上で書いていたが、二人の物語を知ることにばかり興味が移ってしまう。気を引き締めて観賞しなければ、読むことで見た気になって、敢然と目の前におかれた絵画を見落とすことになる。しかもふたりが仲違いした直接的な原因が伏せられたような印象を受ける。友情や切磋琢磨ばかりを打ち出して、もっとどろどろした何かや、ゴッホの心の病のことは、軽く触れるくらいで積極的には打ち出さない。鼻につく。
なんて、ずいぶんと下らないことに拘泥して文字数を使ってしまったな。
以前にもこのblogに書いたかもしれない、小学生の頃、近所の鈴木書店が、父が買った絵画全集の月に一回の配本を持って、カブに乗ってやって来た。その全集のゴーギャンの号で私の印象にはタヒチで描かれた作品ばかりが記憶された。その本が、タヒチ時代のゴーギャンに重きを置いていたのかもしれない。あるいは子供の価値観や常識に対して、ゴーギャンタヒチ時代の絵画が、それを突き崩す力を持って持っていたのか。
いや、高校生か大学に入っていたか、ハイティーンの頃に、ゴーギャンをモデルとして書かれた「月と六ペンス」を読んで、一層タヒチ時代の絵画ばかり記憶に残ったのか。
そのタヒチ時代に至る前の、ポン・タヴァンの頃の作品は、きれいですねえ。昨年、パナソニックミュージアムで、ポン・タヴァン派の絵画展を観たことがあったが、そのときにまして、そう感じた。記憶に残っていない、知らなかった(忘れてしまった)ゴーギャンに、不意打ちを食らったような気分が、楽しい。