春の嵐


 日曜4/15、午前は台風のような暴風雨。春の嵐ってやつ?
 木曜日かな「書店主フィクリーのものがたり」という本を読み終わった。本を、紙の本を愛する・・・うーんと、「愛する」って単語が正しいのか?・・・よく判らないが、そういう類の者として、共感の多い本だった。
 土曜日4/14、夜る遅く気まぐれにテレビのチャンネルを回していたらSONGSではユーミンが出ていた。そのあとに、田口トモロヲが主演をしている植物好きおじさんのドラマが映ったのでそのまま見ていた。内容はともかく、田口トモロヲの掛けているセルフレームの眼鏡がいいなあ、などと思っていた。私は中学二年頃にはじめて眼鏡を掛けて、すなわちひどい近視で、はじめて眼鏡を掛けた日には、世の中というのはこんなに細かいところまで見えるべきだったのか!と、眼鏡屋からの帰りのバスの吊り革につかまりながら、バス停留所に立っている若い女性の美しい長い髪を見て、そう思った。そう思ったことをよく覚えている。以来、ずーっと眼鏡が欠かせない暮らしだった。コンタクトは試したこともない。しかし、ずーっと眼鏡を掛けているのに、毎日の眼鏡でも、休日眼鏡でも読書眼鏡でも、眼鏡を「とても気に入っている」状態でいることが少ない。いや、なかったんじゃないか?
 ときどき映画やドラマで男優さんが掛けている眼鏡を気に入ることがある。土曜日のドラマの田口トモロヲもそれだったが、たしか映画のアメリアメリの父が掛けていた眼鏡にもそう思ったんじゃなかったか。
 日曜4/15、午後、NHKBSで映画監督大林宣彦の「最後の講演」という番組を、これも最後の十五分くらいだけ見る。最後の質問で聴講者の学生が「映画機材や編集等々の技術の発展をどう考えているか?」ということを質問する。大林監督は、映画というのは技術があってできるものだから技術が発展することは厭わないし取り込みたい。しかし、自分の映画に対する製作者としての「フィロソフィー」がないと、技術に飲み込まれると、作者まで道化になってしまう、と答えていた。二十代のころに、尾道三部作「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」を見て、とくに「さびしんぼう」が好きだった。その後の「廃市」も好きだったな。しかし、二十代のころにどこを見て、どう好きだと思ったのかな?
 タワレコの会員登録のようなことをしてあるらしくて、宣伝メールがときどき届く。たいていは中身もなにも読まずに捨ててしまうが、昨日、来ていたメールをふと読んだら、三年くらいまえに閉店した藤沢OPA店が、この4月下旬に再オープンすると書いてあった。いまどきCDの実ショップが再開するというのはどういうことなのか?店舗の形態がぜんぜん違うとか?ダウンロード購入のための視聴のためのスペース、とか?それとも、ターゲットを完全におじさん〜おじいさんに絞るとか?それともカフェ併設とライブにより音楽の趣味を広げる工夫をするとか?
 大学生のころ、すなわち1970年代前半ですが、そのころの一時期、筒井康隆の小説に夢中になっていた。なんていう作品だったのかは覚えていないが、本屋に行くと担当のコンシェルジュがいて、くつろぎながら本を進めてくる、なんていう今ではアリアリの書店形態を、荒唐無稽な未来像として、いや「荒唐無稽」と感じながら読んでたのは読者である私だけで筒井康隆は当然そうなると思って書いていたのか、そういうのを描いた短編があった・・・ような気がするが、違うだろうか。スターでもなんでもない、一市民にある日突然スポットが当たるなんていう設定の小説もあったような・・・気がする。それだっていまはアリアリ?すいせん、この記憶はきわめて曖昧で、筒井康隆にそんな小説はないかもしれません。
 金曜日だったか。街路樹の銀杏を見上げると、新しい葉っぱが一斉に芽を吹いている。落葉樹に新しい葉が生まれるのも「芽を吹く」でいいのかな?当たり前だけど銀杏の葉は生まれたてでも銀杏の葉の形をしている。すんごく小さいのに。当たり前と書いたが、なぜかそれが毎年驚きのように思えるのだった。

書店主フィクリーのものがたり (ハヤカワepi文庫)

書店主フィクリーのものがたり (ハヤカワepi文庫)