近所の紫陽花祭


 ほんの気まぐれみたいなもので、茅ヶ崎×紫陽花と検索してみる。この検索行為って、どういうものだろうか?なんだか単純に便利になったものだとそればかり使ってちゃちゃっと情報を得ているが、ちゃちゃっと得ている分、たとえその内容には差がなくても、それを得るまでの過程の「ちゃちゃっとさ」が簡単すぎると同じ情報でも価値が違うんじゃないか。以前、須田一政さんが、フイルムで撮った写真は現像が上がってなにが撮れているかわかるまでのあいだの、わくわくしたり心配しているその妄想期間があるから、それで写っている写真が変化するはずがないのに、でも変わるんです、といったようなことをおっしゃっていたが、これは即ち、自分の写真を「見る側」「選ぶ側」になったときの心構えが、この妄想期間に育まれている、ということをおっしゃっていたのか、あるいは、その妄想期間とその後の結果確認という一つのクールが、次の撮影に好影響を与える筈だ、ということをおっしゃっていたのか、いずれにせよ「ちゃちゃっと」は良くない面もあって全面信用してはいけない。最近トヨタの自動車の宣伝で、運転手が車と会話して、どこか景色のいい場所でのんびり過ごせて美味しいケーキがあるカフェに連れてって、とかなんとか複数の要求を出して、まったく快適にその希望にささっと車が答えて、たぶんナビに目的地設定するか、将来は自動運転でそこへ本当に連れて行ってくれるのだろうが、それって結局検索した結果であるから、ちゃちゃっとの結果なのである。それで、景色がいいとのんびりと美味しいケーキとカフェという四つの要求に潜んでいる個人的希望の機微は、検索エンジン的には、一般学習した景色と希望者の景色の「いい」の共通性の差異、とかおなじくのんびりの差異とかが埋まらないと本当の満足に至れないが、しかしそんな些細な心配を吹っ飛ばしてAIとビッグデータ解析は個人の嗜好もどんどん咀嚼していくから、その機微まで考慮するのもお茶の子さいさいになる。だから余計に気味悪いよなあ。残るのは、こういった希望に応えた結果があまりに満足度が高いことが続くからこその疲弊で、たまにはちょっと不満にさせてよね、ということで、でもそれすら咀嚼して、たまにはちょっと不満を提供しますよ、となる。こうなってくると、どうなるのか?変な日本語ですがやっぱりそれでも気に入らない宣言をしたいところだが、まぁそんなのは残党に過ぎなくなる。
 で、近くの川沿いに百数十本の紫陽花があって、ほんの小さな紫陽花祭りが、昨日の雨のせいで順延されて今日になっている、ということがちゃちゃっと分かったからカメラを持って行ってみる。紫陽花祭りは祭りとは言えないほどのこじんまりとしたもののようで、しかもまだ開始時刻前で数人の、会社をリタイアされたらしいご年配の方、数名が幟を出して準備している程度だった。あとはちょっとした屋台が二〜三軒出るのだろうか?
 というその場のことは検索してもわからないですね。紫陽花は満開より終わりかけの方が多かったり、白にうっすら桃色が混じったような珍しい色のもあるが、昨日の雨で泥が跳ねていて、そういうのは写真を撮るときには気になるが、気になる写真眼が世の中を見る目を狭めているわけで、現実はそういう時間軸を吸収して目の前にあり、泥が跳ねている紫陽花をこそ愛でることがそうでない紫陽花を探してレンズを向ける行為よりずっと重要に違いない。
 そうしてちゃちゃっと散歩して帰ってきました。
 選んだ写真は紫陽花祭りの周辺風景です。下の赤い橋のある風景も、上のフェンスに抑えられた植物の写真も、これまた自分のなかでは、またこんなふうなの撮ってる繰り返しな感じ。しかしこの飽き飽きした感じをAIはくみ取れるのか?個人の嗜好として吸い取るのか。