雨つづく

 写真はもう12年もまえに撮ってあったなかから選びました。京都の寺町×二条付近だったと思います。

 雨が続きますね。今回の台風は進まないで同じ場所にとどまりながら、いままでの台風の常識的な影響範囲とは全然違う、広範囲に雨を呼び集めるようなふるまいで、これも地球温暖化によって台風の顔つきも変わって来たということなのでしょうかね。ここでサッカーのフォワードに例えるのも荒唐無稽なことですが、いままでの台風が前を向いてドリブルで相手ゴールに向かうようなタイプのフォワードだったとすると、今回の台風十号は相手ゴールに背を向けて、あいてディフェンダーを背負っても倒れず、味方からの縦パスを受けて足元でキープしておいて、味方の選手が駆け上がって来るのを待ち、そこから決定的なパスをアシストするような。ええと、駆け上がって来る味方が雨雲です。その駆け上がって来る味方が一人でなく二人三人になれば、良く言う「湧いてくるように」なるわけですね。すなわち、雨雲を呼ぶ台風本体というわけです。そんなわけで、台風の中心がまだ九州付近にあった昨日30日の朝、私の住む南関東の湘南地方は、ものすごい土砂降りでした。川が氾濫して、ニュースにもなった二宮町平塚市は、すぐ近くです。

 そういうわけで、金曜日と土曜日は自室にこもって過ごしています。金曜は在宅勤務だったから自室からPCをつないで資料を作成したり、会議を聞いていました。土曜日は、昼寝をしたり、本を読んだり、ダゾンでサッカー観戦をしていました。Spotifyで1980年代にずいぶん流行っていたジャズ(フュージョン)ギタリストのアール・クルーを選んで流しながら、ベッドの枕元の読書灯だけをつけて、最近文庫で出た石田千著「あめりかむら」を読み進めました。最近は寡作なのでしょうか?一時期はずいぶん次から次へと本が出ていた印象でしたが。この文庫に収録されている話も、以前文芸誌や単行本で読んだことのある話が多い気がしました。表題作は以前読んだことをなんとなく覚えていました。以前、この人の書く物語はなんとなく、淡々とした日常の小さな幸せを拾っているような話、という印象を持っていたのですが、再読するとそうじゃないですね。主人公は心に傷をおっていて、心の状態も少し世の中に対してとんがっている。とんがっていないと負けてしまうという気分を持って、世の中に対峙している。でもそんな中でも、周りの登場人物がその気分を柔らかく包むような役目を果たしていく。

 たとえば移動中の街の描写を読んでいると、目に入って来る出来事を短い描写で、だけどその場面が目に浮かぶように書き連ねらている。この感じ、このちょっと冷徹な視線は、ちょっと武田百合子のエッセイのようだと感じました。

 最近になり友人に教えてもらい知ったのですが、その武田百合子の娘の写真家の花さんは今年の春に亡くなりました。まだ70代前半だったから、残念です。さかのぼって訃報記事を探して読んでみたら、暗室にも使っていた富士山麓にある、武田百合子富士日記の舞台となった別荘は、数年前に老朽化で取り壊されたと書いてありました。

 ある時期、今もかな、ちょっとお洒落でアーシーな感じの、木の香りがするような、ドライフラワーが飾ってあるような、窓が大きくてそこから庭の緑が見えるような、古いテーブルや椅子やソファーが修理されながらも使われているような、そういうブックカフェなどに富士日記が置かれていることが多かったですね。その山荘がもうないということを、赤の他人のスマホでちゃちゃっとニュース記事を読んでいるだけの第三者が残念がる、そういう残念がるという、まぁ感想を持つこと自体生意気なのかもしれませんが、そうかあなんか残念だなあ、と思いました。

 写真に戻って、深夜、人通りがない道をなにかの集まりから50ccスクーターで帰る二人が赤信号で停められている。さっきまでは大勢の仲間がいて、そこで大声で話したり笑ったりしていた。それがお開きになり、たまたま同じ方向に、同じようなスクーターで帰るふたり。さっきまでの集まりをもう客観的に振り返って、誰かの噂話をしているのでしょうか、あるいは、そこで得たなにかの情報や刺激から、まだ熱量を持って、ああすればいい、こうなればいい、できればこうしてみたい、と、明日以降への期待を話しているのでしょうか。こういう時間て、若い頃にはときどきあったな。集まりそのものより、この「祭りのあと」のような時間が好きだったと思います。