金魚がいて、ペーパーバックライターが流れている

  日曜日。この文章を書いているパソコン机のすぐ横の本棚に写真集が何冊も並んでいて、そこからひょいと一冊を取り出し、久しぶりに捲った写真集をネタにこのブログになにか書いたことは、最近だけでも二~三回あった。武田泰淳武田百合子の娘の木村伊兵衛受賞写真家武田花さんが1990年に出版した「眠そうな町」。写真集の最後に写真家の文章が添えてあり、写真が1987年春からの二年半に、佐野や桐生や伊勢崎で撮られたことがわかる。「晴れた日の真昼間、人通りの少ない見馴れない町を歩くのは、楽しく良い気持ちでありました」と書いてある。出版からすぐの頃に、NHKテレビで篠山紀信が毎週一人の写真作家を取り上げて、その作品と撮り口が紹介されたあとに、対談するような近未来写真術という番組があったと思う。そこに武田花さんが登場して、実際に上記のうちのどこかの町に行って写真を撮る場面があった。たしかコンタックスRTだったかな、それに50mmF1.4を装着していた気がする。当時VHSビデオテープに録画し、そののちDVDRにもダビングしてあるから、部屋中必死に探すと、見つけることができるかもしれない。花さんは百合子さんの「富士日記」にももちろん登場していた。

 真夜中まで人が行き交い、嬌声や罵声や悲しみの声や嘆きの声が混然一体に路地を通り抜け、酔客の千鳥足はそのまま人生の迷い道の航路のようで、それでも夢や希望があるからなんだか悪くない、むしろいい、とてもいい、そんな路地の町があって、その町が眠りにつくのが明け方近い午前3時だとすると、真昼間はまだ町は眠っている。誰も通らない、眠っている町(あるいは花さんの写真集のタイトル通り「眠そうな町)を起こさないようにそっと歩くと、夏の強い日差しが濃い影を作り、ビールやワインの空瓶や、いつの夜に誰が忘れて行ったのかビニール傘を照らしている。まだ眠っている町なのに、今日に限って早くも出勤したバーテンダーはドロップハンドルのロードバイクで乗り付けて、自分の店のお酒の在庫チェックをしている。飲むための町の正当な客として日暮れたあとに路地に迷い込むのなら正々堂々だろうが、眠っている時間に、繰り返すがそっと歩くのは、どこか後ろめたい気分すらする。しんとしているが、どこかの店の二階から、小さな音量で音楽が流れていた。それはビートルズの・・・

 同僚のI君は金魚すくいが得意で、あの紙を丸い枠に張った名前を知らない道具を渡されると、十匹くらいはどんどんすくえた。金魚すくいはコツを覚えると何匹でもすくえるんですよ、とI君は言っていたが、私はいくら教わってもだめで、姪や子供たちにもまったく頼りにされなかった。例えばこんな路地を通り抜けた先にある小さな神社の前の公園で縁日が開かれていて、金魚すくいが出ている。うまくすくえない五歳くらいの女の子が泣きそうになっているのを見るに見かねて、I君と同じように金魚すくいが上手な男が金魚をすくってみせる。四匹目は女の子に道具を持たせ、手を添えてうまくすくう。そこでもうやめて、あの上がきゅっと締まる紐がついたビニール袋に金魚を入れてもらった。女の子は得意気な顔でとうとうすくえた!と喜び、でも自分がすくった四匹目はぜったいあげられないけど、最初の三匹のうちの一匹をおじさんにあげる!と言った。いいよ、おじさんちには金魚を飼う水槽もないしね。そんなの買えばいいじゃん、欲しいでしょ!男は「欲しくない」とは言えない。会話を聞いていた金魚すくいの店の姐さんが一匹を別の袋に分けて入れ直してくれた。女の子の父親(金魚すくいが私のように下手くそ)が男にお礼を言った。

 ビートルズのこの曲は・・・なんてタイトルだっけかな?そうだ、ペーパーバックライターだ。やっと思い出して、音楽が流れている二階を見上げると、窓の枠のところに、透明ガラス製の口の広い花瓶が置かれ、花ではなく赤い金魚がゆらりゆらりと泳いでいるのが見えた。上の写真はペーパーバックライターが聞こえた路地で駅の方向に振り返って見えた光景です。そして上記の「例えばこんな路地を ~ お礼を言った」は窓枠に置かれた花瓶の中の金魚を見て、帰りの電車のベンチシートに座りながら思いついた妄想話。

 ペーパーバックライターをwikiで調べてみました。『あるとき叔母のリルから「どうしてラブソングばかりなの?」と問われたことをきっかけに、ポール・マッカートニーは新たなテーマを模索することとなった。(その結果生まれたのが)ペーパーバックライターであった』『歌詞は手紙の体裁をとっており、小説家を志望する人物が自身の作品を本として出版してくれるよう熱烈に訴えかけるというもの』1966年の曲だ。

 何かを志望する、夢見る、そういう気持ちを持つことが出来る年齢の人達は、素晴らしい人生の瞬間にいるってことに、その最中にいると気が付けずにいることが多い。のちのち後悔しないようにしてくださいね。ペーパーバックライターのように。