終の住処 


 昨日8/25の夜に、文芸春秋に全文掲載されたいそけんさん(磯崎憲一郎)の芥川賞受賞作「終の住処」を読み終えて、その直後に、その流れでいそけんさん仲間(?)がBBSに集っているくまさんのHPをひと月ぶりくらいに見てみたら、くまさんが私の8/22のブログに載せた蓮の写真のことを書いてくださっており驚いた。それでくまさんに、お礼のメールを入れたのだが、そのメールにお礼だけでなくて「終の住処」の感想も書いた。ので、これは読了直後の私の感想なので、そのまま転記しておきます。
『「人生においてはとうてい重要とは思えないようなもの、無いなら無いに越したことはないようなものたちによって、かろうじて人生そのものが存続しているのだった」(終の住処のラストあたり)、そうだよなぁと小説の主人公と同じくらいの歳の私は、共感した。(中略)なんか選考委員の選評を読んでいるとやけにまじめくさってるけど、小説内のエピソードの羽目のはずしかたは、笑うのが正しいんではないかしら。学生時代に山下洋輔トリオの演奏と麿赤児の舞踏のコラボを見ていて、変な舞踏に思わず笑ってしまい踊っている麿さんだったか劇団員だったかに、「笑うな!」と叱られたことがありましたが、でも実は笑ったことは間違いではなくて、麿さんもそういう反応を歓迎しつつの「笑うな」発言だったと、思っているんだけど、そんなことも思い出したりしました。』
 うーん、山下洋輔麿赤児のコンサート(1978年ころ)で笑って良かったのか?上の文章をいま転記してみて、ちょっと自信がなくなっていて、間違った反応をしてしまったのかもしれないとも思っているのだが、少なくとも「終の住処」のある種「極端」なエピソードは笑いながら読みたい、というか、笑いながら読みました。

 数年前はこういう車窓写真をよく撮っていた。