円覚寺 建長寺 八幡宮


 8/28のこと。11時から社用予定があり六本木へ。その前に若干時間があったので、大急ぎで国立新美術館で開催中の「光〜松本陽子+野口里佳展」を駆け足で見てきた。ところで国立新美術館の最寄駅は乃木坂。私は東京駅で「なんとなくの記憶」に基づいて、国立新美術館に行くには確か東西線に乗るんだったよなあ、と思い、行幸通路を抜けて二重橋前駅へ行き、そこから東西線に乗ったのはよいのだが、美術館最寄り駅が「六本木ではない」ということだけを思い出したのだが、乃木坂である、ということが思い出せない。思い出せない段階で携帯ウェブ検索でもすれば良いというか普通するだろ!しかし、地下鉄路線図をじっと見ていて「きっと六本木一丁目だろう」と適当に決め付けた。六本木一丁目は南北線しか通っていないし、それだったらわざわざ歩いて二重橋前まで来なくても、東京駅から丸の内線に乗って国会議事堂前で乗り換えればよいのだから、以前東西線に乗って国立新美術館に行った、という記憶が正しい以上、東西線に最寄り駅があると考えるべきで、六本木一丁目であるはずがない・・・というようなことをそのときは思わずに・・・。で、六本木一丁目に着いて改札も抜けて、はてさてどこにも国立新美術館への道案内が書いていない。そこでやっとその時点で携帯で検索してみて、最寄り駅が乃木坂であったことが判明したのだった。こういう「たかを括った」結果「大間違いを犯す」って、その「たかを括る」ところに年齢的な特徴(?)を感じる。自分のことながら。
 で、また地下鉄代を払うのが嫌で、六本木一丁目からえっちらおっちら歩いたのだった。
 野口里佳展、代表作がずらりと並んでいて見ごたえ十分だった。この人の作品のテーマとか手法とかの選び方って、自己の内部からの興味から来ているのだとしたら、その興味が見る人にとって新鮮だったり共感だったりするということで大変に幸せなことだな。というか、結局、芸術家はその自己に表現に結びつく個の特別な価値感とそれを表現する手段を持ち合わせていて、その両輪が上手く回るから鑑賞者を魅了するのだな。最初っから、誰もやっていない手法とか誰も選んでいないテーマとかを、自発的ではなく戦略的に選ぼうとしてもこうは行かない。
 太陽のシリーズをこれだけたくさん見たのは初めてだったが、圧巻だった。
 もう一度、もっとじっくり見に行こう。

 8/29、鎌倉へ。いつもと違って北鎌倉で下車して、円覚寺建長寺八幡宮と観光基本コースを歩いてみる。建長寺は十年以上来ていなかったが、そのあいだにいろいろと整備されているようで、天井画の龍図や、庭園やら、見ごたえがあった。
 宝戒寺近くのタイ料理店のカレーを一度食べてみたいと思っているので、だんだん歩き疲れているのにとにかく頑張って行って見たらなんだか由比ガ浜の方に出張して開店しているらしく店の方は閉まっていてがっかり。そのあと、カフェLIFEにでも寄ろうかと思ったがLIFEは何かバザール中で女性がたくさん。結局、駅を越えて御成商店街のUNIVIBEでキーマカレーを食べてから茅ヶ崎に戻った。
 茅ヶ崎に戻り、鉄砲通りのカフェ・ハッチへ。カフェ・ハッチの壁面を使って写真の個展をどうぞ、とマスターに言っていただき、全10点前後で11月に小さな個展をできそうです。

 ところで、先日「終の住処」を読んだ後に、ちくま文庫/湯川豊著「夜明けの森、夕暮れの谷」を読んでいる。この本は渓流釣り、フライフィッシングを核としたエッセイを集めた本で、初出を見るとフライフィッシングの専門雑誌などに掲載されたものらしい。文体は極めてオーソドックスな中でも上質で落ち着きがある。で、この本、どうしてこうも心を揺すぶられるものか?自分でもその理由がなかなか分析できないのだが、昨日から下手をすると泣きそうになりながら読んでいる。私は渓流釣りをしたことはないが、したことがないくせして、開高健井伏鱒二の本は何度も読んでいて、本の中ではずいぶんと渓流釣りを楽しんできた。でもそんなことではなくて、渓流釣りをする場所ほどの山の奥ではなくても、十年くらいまえによくオートキャンプで丹沢や冨士の裾野なんかに行っていて、そういうところでも清流はあり大きな岩はあり、緑の山はあり、そこを抜ける風が吹き、本に出てくるようなヤマセミやらアカショウビンやらヨタカには会わずとも、少なくとも都会ではなかなか見ないアカゲラとか黄色のセキレイとかヤマガラとかには出会えたし、明け方のホトトギスの声も聞いたし、満点の星や天の川も見ていた。そういうオートキャンプに行っていた「頃」というのが子供たちが小学生のころで、「星の一生」みたいに「家族の一生」があるとすれば、そういう家族の「少年期」みたいな時期はもう戻らないわけで、そういうことが背景にあって泣きそうになったりしているのかな、などと分析してみたり。
 でも、一番「泣きそうに」なったのは京都の川魚料理屋の主人と、酔った深夜に鴨川に投網をかけたら・・・という話で、これは渓流を舞台にしていない。なにに泣きそうになったからうえに書いた理由とはまた別な刺激を受けている。季節が変わっていくことを認識していくこと、それ自体が既に泣きそうなことなのかもしれない。

夜明けの森、夕暮れの谷

夜明けの森、夕暮れの谷

これは単行本ですが文庫になっています。