フイルムで


 ワールドカップ2010南アフリカ大会が始まってしまったなあ。どうもいままで日本が出場したどの大会と比べても日本では盛り上がっていないように思える。もしかしたら日本が出場できなかった94年のアメリカ大会のときよりも事前の盛り上がりは少ないかもしれない。でも日本戦の日にはきっと皆さんテレビ観戦をするのだろうな。日本がどう戦うかも興味があるが、その楽しみと並列に強豪国に挑む新しい力の台頭や、お国柄それぞれの、特にフィジカルで劣るのにしたたかでらしさ(国の伝統的戦い方)を持っている国々の戦いを見るのも楽しい。というわけで、早速、昨晩は南アフリカ対メキシコを生中継で、深夜に録画しておいたフランス対ウルグアイは起きてすぐに再生して観戦。いやー、やっぱりワールドカップは違いますね。テレビを通じてでも四年に一度の特別な熱気が伝わる。あの南アフリカの方々が吹いているラッパみたいなのはなんていうのか、あの応援の音って、始終蜂が飛び回っているような音が続いているようで、そのうちにあの音に包み込まれるというか取り込まれるというか、面白い。南アフリカがカウンターに出たときの速さはすごかったが、メキシコの例えばブランコの作る溜めとフェイクもいい味でした。小柄なメキシコチームがあれだけパスを通せるのは、前からずっと言われているけど日本は参考にすべきなのだろう。トラップの技術とか、どのチームもやはり上手いねえ。フランスは以前からそういう印象だが、とにかく理想的なフィジカルを持った超人的選手をずらずらそろえている感じで、なんか規格に通った高価な夕張メロンみたいな高級ブランド選手風に見える・・・なんていう感想は非常に不遜で、選手それぞれが人間としての葛藤や悩みを抱えているのだろうが・・・でもなんかターミネーターというかなんというかそういう印象がクールなんだよなあ。そうなるとどうしても規格外メロンを集めて個性のでこぼこでチーム力を上げてるみたいなウルグアイに肩入れしてしまったり。日本の西村主審はいくつか難しいジャッジがあったけど総じて納得できる判定をしていたと思う。今晩も見ますよ、有料の放送は入ってないので見れないけれど、民放の放送は全部(というのは実際は無理)見ると思う。
 最近、サッカーを見ていて、得点の場面が来たときに、以前よりもその得点に至った選手とボールの動きを覚えていないことに気がついて愕然としている。これはやはり年をとって直前のことの記憶力も落ちてくるということなのか?
 例えば、コーナーキックをA選手がショートコーナーでB選手にパスし、B→A→Bと左サイドのパス交換で時間を稼いでいるあいだに、ゴールのファーサイドに同時に二人の選手、サイドバックボランチの選手が全力で走りこみ、そのあいだ、ツートップはセンターとニアサイドで盛んにぐるぐるとポジション争いをすることで、相手DFは後方に走りこんだ二人に気がつかず、フリーでゴール直前まで走りこんだ二人に目掛けてB選手からセンタリングが入り、そのボールは相手DFが飛び上がってヘディングクリアしようとしたその頭が届かない絶妙な高さで速いボールで走りこんだ二人の前に入って、結局、ボランチの選手がゴールを決めた、以上が6秒のあいだに起きた、とする。でも今の私は、B選手のセンタリングを走りこんだボランチの選手が決めた、というところあたりは覚えていても、その攻撃がショートコーナーから始まったことまでちゃんと覚えていないことが多い。記憶力というよりサッカーの見方に熱がなくなっただけなのか?
 前にも書いたけど、音楽を聴くときにも、いまこの瞬間の音に至る近過去の音の連なりを時間軸に沿って覚えるのがメロディーの認識だから、若い人がすぐに、例えば一回だけその曲を聞いただけでメロディのあらましを覚えられるのと、中年以降の人が何回か頑張って聞かないと覚えられないのとの差があることは多分そういうことで、そう考えるとサッカーの観戦なんかでも一般的にそういう年齢差による鑑賞の仕方の差があるのだろう、とかいちいち考えながら見ているわけではない。

 次は本の話。東京駅のエキナカのHINT×INDEX×BOOKのいしいしんじ氏の本棚のコーナーには、数冊は自分の印象に残っている本が並べてあって、ときどき並んでいる本が自分の好みと一致するとぐぐぐっと肩入れしたくなる古書店に出会ったりしますが、そういう感じで、東京駅で電車の乗り換え時間に余裕があるとなんとなく見に行ってしまう。それでこのコーナーから今までに「京都の平熱」(鷲田清一著)と「雪」(中谷宇吉郎著)の二冊を買って読んだのだが、今回はフィリップ・フォレスト著「さりながら」という本を手にして、読みたくなった。そこで、すいません新刊はちょっと高価なので、ネット古書店で購入しました。これから読みます。
 今読んでいるのは、梅崎春生著「ボロ家の春秋」で、これは鹿児島文学館で梅崎春生に戦争にまつわる小説とは別に、市井の場面を扱った小説群があることを知り、続いて行った京都の旅行で三月書房(いや、恵文社だったかも)で雨の日に買ったもの。つげ義春の漫画を思い浮かべてしまうが、こんなのは逆転現象なのか。例えばつげ義春の「石を売る」で奥さんが自分の出品している石に高値をつけて競り落としてしまうような場面があったが、そんな感じの間抜けなおかしさがあって、それがまた今の小説にある面白さとは違う色合いで、そう「暢気」って感じがあって、楽しめる。
 もし書店に私自身の書棚があって、そこに十冊だけ並べていい、と言われたら、何を並べるかな?とか、シャワーを浴びながらさっき考えていた。まず「ボン書店の幻」は是非入れたいな、とか。。。
 そうだった、一昨日、会社で隣席に座っているSさんからベストセラーの「もし高校野球部の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら」を借りて、すぐに読み終わった、という読書があいだに挟まっていました。

さりながら

さりながら

ボン書店の幻―モダニズム出版社の光と影 (ちくま文庫)

ボン書店の幻―モダニズム出版社の光と影 (ちくま文庫)


 次はポール・マッカートニ-にまつわる個人的な話・・・は、明日以降にしよう。

 で、やっとフイルムの話。前回のブログにフイルムで撮りたいという気持ちが生じてきたみたいなことを書いた。その後、今週、スクリューマウントの1950年代に作られた銀鏡筒の25mmのレンズをひょんなことから借りてきた。同じころのスクリューマウントのレンズとして50/1.8とか35/2.8とかは自分で持っていたのだけれど、ここのところずーっと使っていない。カメラ本体はキヤノン6Lを持っているので、では25mmを借りたのもきっかけなので、久々に、一年数ヶ月ぶりにフイルムで撮ってみようと決めた。でも外付けファインダーがないので画角がわからないのですね。そこで、いろいろ調べたけれど安価な25mmの外付けファインダーなんて売っていない。私の場合、そんなに正確なものはいらないと思うので、だいたいこのあたりが写りますよという指針程度で構わないのだ。そこでこれはもうファインダーは6Lに付いている35mm枠を参考にカメラを左右上下に振って、25mmならだいたいこのあたりになるというのを想像して撮ればいいや、大雑把に計算すると最初に見えた画面の横(縦)の長さの100×(35-25)/35%くらいを左右に振ればそれが25mmだよねってことでのときに写る大雑把な範囲くらいだからそれで確認すればいいや、と割り切ることにした。
 一本だけコダックの400のネガカラー、36枚撮りが残っていたので、それを入れて茅ヶ崎駅までの住宅街の道と、電車に乗って行った藤沢の駅の周りをうろうろしてとにかく一本撮った。パワーショットも首にぶらさげていて、速射(歩いている人とのすれ違いスナップとか)はデジカメの方に頼って。すると36枚撮りきるのに結構苦労したりして。一方のコンデジの方はそのあいだに160枚を撮っていて。やはりデジタルかアナログかということよりこの場合は、撮影のためのマニュアル操作(露出設定、ピント設定、上記の画角確認操作)に要する時間がそうさせているような気がする。
 で、ビックカメラに行ってフイルムを買うことにしたのだが、一年ほど前に一番使っていた大日本印刷の36枚撮りフイルム10本で2300円くらいだったセンチュリアはもうないのですね。一番安くても10本で3080円のコダックだった。ネット通販で捜せば10本2000円くらいで買えるのだが、でも今日はとにかくこの3080円を買っておいた。
 ビックのDPEでフイルム現像だけしてもらい、家に帰ってフラット・ベッド・スキャナーでフイルムを読み込んでみた。スキャナーのお手軽なフイルムスキャン機能なので、そこでも画質は相当に劣化するし、撮るときにはなるべくオールドレンズの味が出るように絞りを開くように開くように、若干露出がオーバーになってもいいからそうしようと思ったし、そんなこんながどう影響し合っているのか判らないが、とにかく例えば上の写真がそんな一枚で、でもこの左側にいる人はやっぱりファインダーで計算なんかできなくて、ノーファインダー撮影の結果ここに入っていたというわけであります。


コンデジからも一枚。川の雑草はあっというまにあたりを覆う。