くたびれたカーテン

 午前、茅ヶ崎駅東海道線ホームへ階段を降りて、東の先へ、すなわち先頭車の方へと歩いているときに、突然頭のなかに南沙織が歌った(あまりヒットしなかった)「愛はめぐり逢いから」という曲が流れだした。ポッドキャスト番組オーバーザサンでスーさんとみかさんが今回と前回話題にしていた霊、ゴースト現象だと思うと自ら苦笑した。

♪ 行くあてもないのに 何故か ゆっくり歩けない ♪

♪ 二人は別の場所で 生まれ育った すべて わかりあうまでに どんな 月日が過ぎる ♪

歌詞が断片的に出てくる。脳の中の記憶のどこに絡まっていたのか?久々にシナプスの電気信号パターンがそこに合致したのか?わかりあうまでの月日を過ごす二人は辛くても離れないでいられるのかな。

 やって来た先頭車に乗り、ぎりぎり座ることが出来る。今日はAPS-Cサイズセンサーのミラーレスカメラと、1950年代のレンジファインダーのフイルムカメラをバッグに入れて来たが、フイルムで撮るかどうかに逡巡があって、まだカメラにフイルムを装填していなかったが、電車が横浜駅を出て、隣の席が空席になったところで意を決してフイルムを装填した。KODAKのISO400の36枚撮りネガカラーフイルム。スクリューマウントの広角35mmと超広角19mmを持ってきた。19mmを付け終えて、新橋駅で電車を降りた。フイルムで撮って一息ついて、デジタルでたくさん撮って、一休みして、今度はフイルムで撮って・・・そこを撮るときの「そこ」に応じてフイルムにしたりデジタルに変えたりするわけじゃない。フイルムで撮ってからデジタルに変えると、いま撮っていたフイルムの感覚がデジタルに波及して、なんだかちょっと大胆にカメラを向けるように変われた気がした。一方、デジタルからフイルムに変えたときには、デジタルの影響がフイルム撮影には移動してこない。ただ枚数を増やしかねないリスクなだけだった。

 今日は、代官山と恵比寿と渋谷の真ん中あたりのカフェで開催中の高橋恭司展「Ghost」を観た。あぁそうか、そこここに精霊がいて、揺らめいているな。

 見終わってコーヒーを飲む。小川洋子の短編をひとつ読む。ダゾンで湘南とC大阪の最後の15分を見る。渋谷の方へ歩いて行くとBOOKS東塔堂があったのでちょっと立ち寄ったりも。

 さて、フイルム二本撮り終わり、でも今日はまだ現像にも出していない。もう何本か撮ったらまとめて出そうと思います。

 上の写真は本日撮った、というか撮ってあった写真。歩いている途中にあった古いマンション、なんとかコーポラス。管理人室と思われる。なんで撮ったのか?一つはこの湾曲した壁のデザインに対して、平面の木製窓枠で繋いでいるのがちょっと古めかしい。だけど、窓の向こうに見えるストライプのちょっと日に焼けてくたびれたカーテンが写真を撮りたくなった大きな理由なだと思います。下の写真は少し前の夜に、茅ケ崎市内を散歩したときに撮った司法書士事務所の建物。これはもうそのときに意識的でしたが、窓の向こうのブラインドがちょっとくしゃっとなっているところに惹かれた。

 この日に焼けてくたびれたカーテンとか、くしゃっとなっているブラインドが撮ろうと思う気持ちにつながるのはなんでだろう?やはり人の使用や時間の経過を経て、もはや新品ではなくなった物に愛おしさを感じるのだろうか。