午後の日差し 車窓から


 本を読もうと思って電車に乗っても、実際には写真を撮るか眠ってしまうかで、本はあまり進まない。まだまだ暑い日が続きます。
 朝起きると水を飲む。500mlのペットボトルの、その半分くらいを、ひといきに。数年前に会社のCさんが、それで健康になって高血圧が治ったと言っていた。以来、そうしている。夏でも冬でも。
 最近は夢を見ない。あるいは見ていてもまったく覚えてないってことだろう。よく「飛ぶ夢」を見るという話を聞くが、私は「飛ぶ夢」を見たことが一回だけしかない。それも、すいすい飛んだり、高速でジェット機のように飛んだりではなくて、落ちそうになりながら必死に唸って飛んでいた。
 泳ぐのが苦手だ。平泳ぎで泳ぎだすと、最初の十メートルくらいはなんとなくいい感じで進むのに、そのあと、まったく同じ泳ぎ方を継続しているつもりなのにだんだん沈んでくる。ああそうだ、あの「飛ぶ夢」はそんな平泳ぎみたいだった。
 夢は覚えているという感覚があっても、いざどんな夢だったか詳細を話そうとすると何も覚えていなかったり。寄せて来て、すぐに砂浜に浸み込んでしまう波みたいだ。若いころはもう少し覚えていられたのだが。
 だから朝起きて水を飲むときに、夢のことを思い出しているなんてことは全くない。
 ちょうど起きるころに、ベランダの手すりに烏が飛んできてとまり、手すりの上をカタカタと足音を立てて移動している音が聞こえる。少し寝坊をすると、近くのコンビニに毎朝通ってくる男の人が連れている犬が吠える声で起きるこもある。男がコンビニで買い物しているあいだ、駐車場のあたりに首輪の紐を結ばれてしまった犬は、男が買い物を終えて出てくるまでずっと吠え続けている。
 でも烏も犬も、それで起こされても対して文句はないのである。それはそれで目覚まし時計みたいなものだろう。ただ、ベランダに置かれている自転車のかごあたりに烏が巣を作ったりしないだろうな、という危惧の気持ちがかすかにある。味の素をなめるくらいのかすかな危惧。
 子供のころ、食卓には味の素が置いてあって、それを手のひらに出してぺろりと嘗めるのが好きだったのである。そのころから芽キャベツが大好きだが、芽キャベツはあまりメジャーにならない。