解体すること


 練馬区美術館に「グスタボ・イソエの静かな眩暈」展を見に行った。そのあと水道橋のUP FIELD Galleryにまわり、友人の川鍋祥子さん写真展「空に」。帰路、東京駅から乗った東海道線で戸塚あたりまで熟睡し、起きたら偏頭痛がしている。その後の予定をあきらめて帰宅。
 帰宅後、ナロンエース(頭痛薬)を飲む。外から子供がボールを撞く音が聞こえてくる。もう日が暮れたけれど明るさが残っているのかな、カーテンを閉めてしまったからわからないな。ツクツクボウシが一匹、鳴きはじめてすぐに鳴きやんだ。家族が何かを静かに読んでいる。Sが読みながらお菓子を食べている。ポッキーをかじる音が聞こえる。ボールを撞く音はずっと続いている。

 イソエ展。リアリズム絵画作品の横に生前イソエが残した言葉がところどころ掲示してある。描く対象の物を徹底的に見ているとそのうちにいままで見えていたのとは違う見え方をしてくる。そこまで対象を解体や解剖が出来てはじめて、写実でありながらその内面にあるものや、その場の空気まで描ける、といったようなことが書かれていた(書き写してきたわけではないので、だいぶ違うかもしれないけど)。しかし、そういう解説を読んでも、私はそれをきっかけに何か考えをめぐらすことが出来ない。写真趣味人としてはどうしても写真と比較して技術的な(表面的な)差に拘泥してしまったりで鑑賞の次元が低い。ここまでの解像を出すには大判カメラを使う、するとこの画角の焦点距離で、人物がぶれないシャッター速度を選ぶと、どうしてもこの深度は確保できないな、とかなんとか。二次元作品であることが分類最小単位であるとして、それが写真で作られていようと絵画だろうと、そういう手法を考えずに、そこにある二次元の作品のみから何かを感じ取るべし!と自分に叱咤をしてもそうできない。
 絵画は写真と比較するとすべからく抽象なのかもしれない。リアリズム絵画という技法的分類名があるだけで、本当はこれは写実ではなく作家のものすごく肥大した妄想や哲学思考やらの結実で、およそ現実にあるものを写真で撮ったプリントとはかけはなれているに違いない。だからこそ、写真機はコピー機であり、写真は現実のコピー(森山大道中平卓馬の主張)という言い方が写真に与えられた唯一の生息地域か。
 中学生のとき柔道部の連中は体育の時間に前転をすると、体に染みついた「受け身」の態勢から抜け出せずに、前転から立ち上がるという簡単な動作が出来なくなっていた。連中はみんな、わざとやっているのかと勘違いするくらい誰もかれも受け身(左手のひじから先で平行に床を受け、同時に両足の側面も床の衝撃を受けるような傾いた姿勢)を取ってしまう。
 そんな柔道部の連中のように、写真部の私は、正しくこの手の絵画を見る術を知らない。
 それでもあえて言えば、たとえば、今後、上に書いたようなシャッター速度と解像度と被写界深度三者を同時にクリアできるカメラが出来たとして、それでもそれによる写真プリントはリアリズム絵画とは違うのか?もし違うとしたら、それは結局、作家が感じた空気感なんてことでの差なのだろう。本当のリアリズムは純機械的な、私情のさしはさまる余地のない写真に軍配が上がるのではないか。しかしそうであっても、イソエの絵画はそういう写真にもたらせない何かがあるのだろうから、だからそれは突き詰めれば抽象的なことなのだろう。いや、その抽象があることが具象(=リアリズム)という人間的立場に立った主張もありそうだな。そうなると堂々巡りから抜けられない。
 そうこうしているうちに写真の方は美肌モードとか記憶色再現とか、写実ではない「一般的に気持ちの良い似非」をまとってきている。
 そんな風だったので、ひとつひとつの絵の前に立っても、何か感動したり突き動かされたりしない。とまどいのままずっと鑑賞を済ませてしまっていた。ところが、最後の白い皿の片隅にもう食べられたあとの骨となった魚が置かれている絵にたどりついたら、鑑賞に苦戦していた私でも、この絵だけからは、なんて書いてよいのかわからないのだが、ちょっとグラッと来た。この絵でグラッとくるようにずっとボディブローを浴びていたのが、先の戸惑いだったかのように。

 川鍋展。ご実家のある信州のとある町の神社では、諏訪大社御柱と同じ年に、その地方の各「しもじもの」神社の一つとして小さな御柱祭があるそうで、その秋祭りの一日をずっと捕えた写真。秋のおだやかな一日に、小さな集落単位で守られてきた秋祭りの時間の流れの愛おしさ。ここに隠れた面倒くささや自動的に行われる決まりに基づいたスケジュール。子供たちが騒いでいて、それと同じ子供時代を過ごした大人たちが集って、たいていは近所の小さな世界の噂話や当面の問題点について話す。ああ、そうだよね、こういうのが故郷への愛情となって人の心の一番底に堆積しているんだな、などとあらためて感じる。彼女の写真はそういう本質を声高には語らない。木漏れ日や影や雲や青空や秋の花から、あるいは写真に写った虹色のゴースト画像から、遠回りするかわりに何も踏みにじらずにそれを伝えてくる。ほっとできる空間。

 ここまで書いてきたらボールを撞く音が消えてしまった。もうお家に帰る時間を過ぎたのだろう。


写真は昨晩のものです。