光景から音楽を


旅行から帰ってきて、すぐにこのブログに文章をアップしようとすると、時間に沿って、大抵の小学生が遠足のことを作文したようなものになってしまう。12月3日や4日の、このblogの文章のように。幸いにして、今の私は小学生と違って多くのことは、その具体性をさっさと忘れてしまう、あるいは、忘れることが出来てしまう、いやいや日本語が間違ってますね、正しくは「覚えていることが出来ない」年齢なので、こうして小豆島と高松への旅行から2週間も経ってしまえば、だいぶその忘却が進んでいて、その分ちょっとはましな文章が書けるかもしれない。これ、まさに老人力、と言う訳ですか。と言うわけで、この12月5日の文章は17日に書いています。
小豆島の土庄の街は、戦国時代だったろうか何か戦術的な目的で故意に作られた(と、何かのガイドブックに書いてあった)複雑な路地のあるエリアがあって、そのあたりは、今では「迷路の街」と名付けられ観光資源になっている。路地が曲がりくねっていて、いつの間にやら、どっちに向かって歩いているかわからなくなる、そんな風なのだ。そして、その迷路の街のなかにある、もう使われなくなった小料理屋だった建物や、米蔵だった建物を使ったギャラリースペースになっている。発券所で通し券を買うと、各ギャラリーのエントランスカードと地図を渡され、実際にはそれほど迷わない訳だが、迷路の街を地図を辿って歩きながらやっと見つけたギャラリーにエントランスカードで入って、ご自由に鑑賞してきてください、と言うやり方になっていた。
私が行ったときは雨上がりでまだ低い雲が立ち込め、もう暮れるのが間近な時刻だった。しかも、一人きりで、平日と雨のせいで他の客は誰もいない。そんな状況で、元は小料理だった方のギャラリーでは小豆島に伝わる昔話に登場する妖怪を、想像するままに描いた妖怪画(あるいはオブジェ)の展示で、そこに昔は人が集っていたいまは廃業した小料理屋なんていう、人のいた気配が色濃く残る空間でそういった作品を見るのは、面白かったのと同時にゾクゾクとし、とても怖いのだ。
米蔵を使ったギャラリーでは、ニュージーランドの映像作家ティム・プレブルの展示だった。ホームページの本展示のページには、小豆島のどこかの浜で定点撮影されたような水平線の写真が複数枚コラージュされた作品が載っていて、なんだかよくあるような作品なのではないか?大したことないんじゃないかと、期待薄のまま行ってみた。期待は良い方に裏切られて、この展示は楽しめた。この作家は映像作家なのだろうがその本質は音楽にあるのではないか。
自然を観察した結果を何かの法則で音符に置き換え、音もしくは音楽として翻訳したような作品は、既に沢山作られているのだろう。私の出会った限りでも、2009年に国立新美術館で開催された野村仁展で月の運行や電線に止まった鳥の位置を何らかの法則で音符にして演奏したものを聞いたことがあった。
ティム・プレブルの作品にはこんなのがあった。小豆島のどこかの浜から水平線を画面の中心、左右を横切る位置に配置する。風景写真の一般的な教科書的に判断すれば「良くない」構図である。瀬戸内の海だから、小さな島や島とは呼べない岩礁が沢山ある。そういう写真の水平線をy=0のx軸とし、水面と青空は一様で被写体の輝度や色の変化はほとんどなく、そういう条件で、ある一定速度でxを変位させたときの空または水面と、島や岩礁の境界の高さを、即ち被写体のエッヂの高さを信号として取り出す。自然の形状をある決まりで信号化して取り出したことになる。この信号の強弱に応じて、どう音楽に置き換えるか?のところで、親しみやすさへの歩み寄りをどうするかが決まるだろう。単音のまま、単純にボリュームを信号に応じて、時間と共に変化させただけだと、実際にその音を聴いていないから想像するしかないが、多分それは、音楽と言えるようなものてはなくって、あまり心地よくはなさそうだか、そういう風に映像から音の強弱に置き換えたと言う行為を知ることで、何か意味深でコンセプトめいたことを感じられるかもしれない。ティム・プレブルはもっとずっと聞きやすい法則を見つけて映像を音にしていて、それは、音楽だと思った。もしかしたら、音に置き換えるときに、映像から取り出した波形への忠実度を譲歩して、それはある程度の道標もしくは切っ掛けであって、そこからの音楽への置き換えには、音楽足りうる成り立ちを優先させているのかな。この海の写真に限らず、池なのか川なのか泉なのか、小豆島のどこかにあるそういう場所で撮られた動画に映った、不定期に数ヵ所に、かつランダムに落ちてくる水滴により出来た波紋に合わせた音楽も心地の良いものだった。
これらの音と動画からなる作品だけでなく、シンプルなモノクロプリントも、何点も展示されていた。主に長秒時シャッターで撮られた写真だが、よくある滝や川の流れが長秒時シャッターによりふわふわした白い「領域」として写ったような、手垢のついたよくある風景写真に終わっていないのが何故なのか。黒の中にあるグラデーションの美しさ故なのか。
暮れ時の、薄暗い小豆島で、誰もいない米蔵で、もしドアロックが壊れてしまったらここから出られなくなるのではないかと言うような閉所恐怖症じみた思いもあるなかで、鑑賞したティム・プレブルの作品は、もちろんそのときの自分を取り巻いていたこういういろんな状況との作用の結果として、とても印象に残るものだった。
このあと、レンタカーを停めたエンジェルロードの駐車場に戻るために歩いていたら、小さな舟溜まりの水面に、電信柱と満月が映り、ゆらりゆらりと揺れている。一日に沢山の写真を撮っていても、そこを撮る動機の強さが、下がりきってたるんだ閾値を越えてはいても、かろうじて越えただけでしかもそこから突出することがあまりない。この電信柱と月の、水面に揺れる光景に出会ったときだけは、その値が少しは高まったようだ。
その写真が前の日のブログに載せたものです。

以下は、ティム・プレブル展の案内ページからの転記。

ティム・プレブル展 ~小豆島から 「A DROP,BECOMES THE OCEAN」
Tim Prebble ティム・プレブル(ニュージーランド
ティム プレブルは新進の映像、低速度撮影、写真のビジュアルアーティストです。作品はイマジネーションと技術を組み合わせて制作、「時間」と「認識」を探求することに主眼をおいています。ニュージーランドウェリントンを拠点として、日本、ベトナム、バリ、タイ、パプアニューギニアサモアなどの太平洋と東南アジア各地を取材し作品を制作してきました。2004 年に初めて日本の瀬戸内海を訪れて以来、小豆島は特別な場所となり、2013 年には小豆島土庄のアーティスト・イン・レジデンスプログラムに参加しました。2011 年ヴェネチア国際映画祭 オリゾンティ賞・CICAE 賞受賞作品 『The orater』の音楽を担当。その他にも関わった映像作品が、ニュージーランドベストサウンドトラック賞ほか数多くの賞を受賞しています。