時間におわれる効果 その他


前の日のブログに書いたように、小豆島をレンタカーで回った雨の日、もう暮れ始める夕方の5時頃になって訪ねたギャラリーで出会った展示と、そのあとに見た光景のことが印象に残っている訳だが、そのときの私の状況と言うか、気持ちには、先を急がなければと言うような少し余裕のないところがあった。レンタカーの返却時間が迫っていたし、高松行きのフェリーの出港時間のこともあった。
実際、予定していた5時半発のフェリーには間に合わず、別の桟橋から出る高速艇に乗ることになった。
そういう「時間がない」状況にいたから出来なかったことは、もっとゆっくり作品を鑑賞したかったのに出来なかった、とか、もっとゆっくり時間をかけて沢山の写真を撮りたかったのに出来なかった、と言うことになる。世の中の、短い休日に組んだほとんどの人のほとんどの旅程は、最後にそういう思いを伴うように出来ているのではないか。バックパッカーの、とは限らないか、即ち何の制約もない、あて、と言うより、果てのない自由な旅は別だろうが。そして、私のしているようなつかの間の慌ただしい旅を、そんなのは本当の旅じゃない、なんて言うようなことが流行った時代もあったような気がしないでもない。旅と旅行は違う、とかね。要するに帰るところと帰る時間が定まった「安心の裏付けのある旅行」なんかちゃんちゃらおかしいなんて感じの主張があった。今もあるのかな。
そんなことを比較して良し悪しを論じること自体、アホらしい気もするが。
ところで、もしかしてこういう束の間の旅行では、時間に終われていて、後ろ髪を引かれるような状況にあるときこそがその旅行の 「良き時間」になるのではないかな。時間におわれていたからこそ、ティム・プレブルの作品を通りすぎずに見ることができ、時間におわれていたからこそ電信柱と月の光景に目が止まった。もし時間に余裕があったなら、ティム・プレブルの作品を前にしてもなにも感じられずにもっと短い時間で鑑賞が終っていた、そんな気もするのだ。おかしなもんです。
あてのない旅などする勇気も気力もないから、安心の旅をしていて、更にそこで時間におわれて、それではじめて何か自分の気持ちがはじめて少し解放された、そんなことなのだ。

12月5日、夜、高松にあるギャラリーnishininishiで青木隼人とHaruka Nakanuraのライブを聴いてきた。旅程を組んだあとに青木隼人のスケジュールをwebで確認したら、その金曜の夜に高松でライブがあることを知った。こういうのは必然的な確率で発生する、偶然と感じられる些細なこと、の一つがここでポッと起きたというだけのことだが、それが即ちやっぱり偶然なのだから、ちょっとは嬉しくなる。気が付いたときにまだ若干名余裕ありだったので、早速申し込んでおいたのだ。このギタリストのことは、知人のブログで知った、荻窪だったか西荻窪だったかにある、雨と休日、と言うCD店で知り、更にこの秋に私が何度も通った写真家のトヨダヒトシのスライドショー上映会のコラボレーションイベントとしてはじめてライブを聴いて、それが有り体に書けば「良かった」。そんな経緯なのだ。
トヨダヒトシのスライドショーが、その場でそのときだけ聞こえる音や、音に限らずその場を構成して、聴衆が五感で感じられる様々なこと、その一過性で偶然に出来ている環境を許容する中で、その環境を含めて見る人の心になにかを伝える、そしてもちろんその伝わるなにかは、その個のその場に至るまでの様々な背景があって、ひとりひとり違う部分と、同時代に同じ国にいてここに来たと言うことなどから括れることになった共通の部分とが 絡み合って出来ている。そういう鑑賞から伝わってくるなにか、を得ることがライブの真骨頂と言ってもいいだろうか。トヨダヒトシのスライドショー同様に青木隼人のライブも、そういうことが楽しみかたなのだと思った。もちろん、他の視点のライブの真骨頂もある。CDとおんなじミスない演奏テクニックを楽しむ、とか、その反対にCDとは違うミスと言うよりズレを聴くとか、そのホールの音場を楽しむとか。
青木隼人のCDを聴いてもライブほどの魅力を感じない、と言うより、CDもいいけどライブはもっとずっといいのは、この一過性の場のもたらすことがとても重要だからで、それを知ってる本人も、演奏する場所を、その一過性の場が味方になるところを「選んで」いるのだろう。nishinishiも素敵な場だった。
しかし、こう考えて来て、待てよ!と思った。私たちがCDを聴く環境って、例えば良く音響設計された理想的リスニング環境にあるわけではない。CDに録音されたスタジオ録音の音源に、なんらかのその場の環境音が混ざってしまう状態で聴いていることがほとんどだ。と言うことは、例えば青木隼人のCDを聴く環境を整えて、それが所謂自分の日常から少し踏み出したような環境を作ってやれば、ライブ同様にその時だけの、一度だけの、鑑賞ができる訳だ。なるほど、良く知っている曲でも、自室でCDプレイヤーで聴くときよりも、どこかのレストランで不意に流れてきたときに、今までよりもずっとその曲を「いい」と感じるときがあるのは、その環境のもたらすライブ感によるってことかも。
音響学的に再現精度が高く、変な反響がない場所、オーディオルームみたいな、そういう場所ではなくて、どこかの街角でも、砂浜でも、風の通り道でも、ざわめきが聞こえる通りでも、そういうノイズが否応なくある場所をそのノイズへの親和性を認めて選び、そこでそのノイズも含んで、いやノイズだけでなく聴覚以外の感覚に感応されることも計算して、CDを聴くと言う、自分だけのライブの演出をしてみると言うことをやれば面白いのではないか。ライブ盤のアルバムこそ、それがライブ盤だからこそ、出来ればノイズのないオーディオルームで聴き、スタジオ録音のアルバムはあえてそう言うノイズのある環境で聴いてみる、と言うことをすれば音楽が違った魅力で迫って来るのではないか。なんて言うのは、写真で言えばノーファインダー撮影のように、ちょっと正当ではない、リスニング態度なのかな。

5日の日付のブログに載せたぶれた写真は、青木隼人ライブのあとに夜空を背景にした鉄塔を手持ちの数秒の露光で撮ったもの。画面を横切る円弧状の形は、なんと!満月の一日前の月の光が原因のゴーストらしいです。カメラはライツミノルタ。そして、最初、私自身、ネガ傷かと思っていたV字にボケた光跡は、良く見るとオリオン座ではないか。そしてその光跡の色が、ちゃんとリゲルは白に、ペテルギウスは赤っぽい色に写っている。