案外にも風景が思い出される

 真夏の光は町を白く塗りつぶしそうだ。

 木曜日か金曜日にNHKテレビで火野正平の「にっぽん縦断こころ旅」の茨城県編を見ていた。番組は(多くの方が観ていてご存知の通り)寄せられた手紙に書かれた、投稿者の「思い出の場所」に火野正平が自転車で赴き、その場所で手紙を読み上げるという構造だが、私の印象としてはこの番組が始まった約十年前に火野さんは旅先で出会う人たちとのコミュニケーションをあえて少なくしていた気がする。最近はずいぶんフレンドリーに出会った人と話している。もしかすると編集方針が変わっただけかもしれない。でももしかすると火野さんが丸くなったのかもしれない。火野正平は手紙に書かれたことを淡々と読むし、冷たくはないが暖かすぎることもない。ふーん、そういうことがAさん(投稿者)にあったんだねえ・・・までで、その投稿に対してさらに余計な感想や共感を上乗せしない(あるいは上乗せはミニマム)。途中で出会った人との交流がフレンドリーであって、投稿に対しては余計な感情を上乗せしない、というところに火野正平の人柄が見えるようになってから番組がぐっと面白くなった(気がする)。彼は植物や昆虫や、自然に詳しいのもいい。同行している自転車チームの連中もいろいろと教わっているようだ。

 投稿のなかに、小さい頃に霞ケ浦の水浴場に行った思い出を書いている方がいて、その方は子供の頃に家族で観光に行くような機会がとても少なかったので、あるときにお父様が霞ケ浦の水浴場行を提案をしてくれたときは、とても嬉しかったそうだ。その水浴場(跡)に火野さんが行ってその手紙を読んだ。手紙には、それほど嬉しくて楽しみにして待ちに待った出来事だったのに、その日の楽しかったことや具体的な出来事の思い出がなくて「ただ霞が浦がキラキラ光っていたこと」と「父が抜き手を切って泳いでいた」そのふたつの映像だけが思い出せる、と書かれていた。そしてテレビカメラはきらめく霞が浦の水面をズームアップしていった。

 水浴場でこの投稿者はどういう風に過ごしたのだろう?持って来た母が早起きして作った弁当を広げたビニールシートの上で食べたとか、ビーチボールで浅い水深のところまで水に浸かって遊んだとか、もしかするとすいか割をしたとか・・・でもそういうことは覚えてなくて、水面のきらめきと抜き手を切る父の姿だけを覚えているという。なんだかいい話というより、そういうことってあるよなあ・・・と思ったのだ。

 井伏鱒二の「釣師・釣場」新潮文庫の36-37ページにこんな記載がある。

『釣りをする人はよく云っている。釣をしていると付近の風景などには目もくれない。風景など見るのは邪道だと云う釣師がある。しかし風景などには目もくれないで釣をしても、後から思い出すと案外にもはっきりと風景が思い出されるのは不思議である』

このエッセイとこころ旅の投稿と同じとは思わない(井伏鱒二は釣のことそのものは忘れてしまうなんて書いてない)が、でもなんとなくちょっと似てるかもしれないな・・・。思い出したので書いておきました。