きっかけ


 朝8時半、カメラを持って近所の散歩に出る。T中学校の裏からK川を渡り、川沿いに広がっている畑地の中を抜けて歩く。もうすぐ黄色い花を盛んに咲かせるであろうセイタカアワダチソウが一面に生えているのは休耕の畑なのか。このあたりは、以前はよく歩いていた。毎週というわけでもなかったが、ひと月に一度くらいは歩いていたと思う。自分にとっての「日常」とか「習慣」だと思っていても、実際はそんなに長く続いていないことが多いのではないか。いつのまにか「日常」や「習慣」が変化している。このあたりの散歩の「習慣」もいつのまにか「習慣」ではなくなっていた。歩くコースがなんとはなく決まっていて、ここを曲がるとビニールハウスがあるとか、小さな神社があるとかもわかっていて、そういう中には、そこへ行けば写真を撮ることにしている、あるいは撮ってしまう場所というのがある。
 ところが久々に歩いてみたら、そういう写真を撮ることに決まっていた場所がすっかりなくなっている。ひとつは住宅地の中にあった(たぶん)青桐の大きな木が何本か植えられている小さな児童公園で、木と古いブランコと滑り台のある景色が好きだったのだが、忽然と公園がない。なにか場所の記憶が間違っているのかと思ったが、歩き回ったすえに公園とその横に合った倉庫と駐車場が、新しい住宅に変わっていることがわかった。
 さらに行ったところには中が物置として使われているらしい小さな廃車のバスが置かれているはずだったのだが、ここは市民菜園のような小さな箱庭のような畑スペースになってしまっていた。
 行きつけの喫茶店やCD店や古書店や映画館がなくなるときに、ちょっとだけ「困って」しまい、そのうちにそれに代わる新しいところが見つかったり、もう代わりがないままにそれでもいつのまにか「困らなく」なっていて暮らしは破たんなく続いたりする。それよりずっとささやかなことである、消えた「公園」と消えた「廃車のバス」なのだったが、もしかしたらこういうことのダメージを再生するエネルギーが減少していくことが、精神的な加齢の症状なのかもしれないぞ、などと思ったりもしたのだ。

 午後、実家へ。NHK-BSで火野正平が自転車に乗って、視聴者から送られた手紙にその場所にまつわりエピソードとともに書かれた「思い出の場所」を訪ねるという番組が始まった。まったく知らなかったけれど、どうやらこの番組は毎日毎日ずっとやっているらしい。
 今日の放送では青森県津軽半島にある木造(きづくり)という町や鰺ヶ沢という町を走っている。鰺ヶ沢では津軽の大浦光信の城址と墓地を訪ねるのだが、そこに行くことになった視聴者の手紙には、史跡の入り口から墓地までの道すがらの様子が、たとえば「母の胎内に入っていくように」といった凝った比喩をもって綴られている。その文章を確認しながら火野は歩いて行くのだが、火野には、視聴者の綴った光景が比喩も含めて、共感しているときと違うじゃないかと感じるときとが入り混じっている。あまり語らない火野が視聴者に媚びるように雄弁だったり明るかったりしないところがこの番組の魅力なのかな、と今日初めて見ただけなのだが、そう感じた。番組をソレナリに仕立てる音楽もない素っ気なさも魅力なのかな。視聴者の思い出に導かれてある場所に行くが、その思い出は踏み台の一つというかきっかけの一つ、参考の一つであり、あとは自分の感覚でその場所を見ている。そういうことなのだな。誰もが行っている有名観光地に行き、みんなと同じように写真を撮って、名物を食べて、お土産を買って帰るという行動の一つ一つが、そういうことだ。
 なんて、こうして書くと、だからなに?となってしまうが、そういうことを番組を見ながら感じていました。